学術研究院教授( 教育学系)間島 秀徳教授信大的人物

6つの個展2015

間島 秀徳教授

photo:akihiko iimura

 茨城県近代美術館で平成27年9月5日から10月18日まで開催された「6つの個展2015」に、信州大学学術研究院(教育学系)の間島秀徳教授の作品が展示された。間島教授は現代日本画の旗手として「水」をテーマとした存在感のある作品で知られている。今回は本学人文科学系の金井直准教授にレポートしていただいた。

(文・毛賀澤 明宏)
・・・・・ 信州大学広報誌「信大NOW」」第96号(2015.11.30発行)より

Profile

学術研究院教授( 教育学系) 間島 秀徳(まじま ひでのり) 教授

1984年東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業、1986年同大学大学院美術研究科修士課程修了、2000~2001年文化庁在外研修員としてフィラデルフィア(ペンシルバニア大学)・ニューヨークに滞在、個展・グループ展・美術館企画展等多数、2015年より現職。

Reporter

学術研究院准教授( 人文科学系) 金井 直(かない ただし) 教授

専門はイタリア美術史および近現代美術批評・キュレーション。1996年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。1999年同大学にて博士号取得。豊田市美術館学芸員を経て2007年より現職。あいちトリエンナーレ2016キュレーター。

「6つの個展2015」より

 水はやわらかく、そして重い。澄み、流れ、淀み、また、像を映し、あるいはそれを歪める。水はまた、日々我々を支え、しかし、突如として離反する。それは極めて甘くもあり、そしてときに耐え難く苦い。その性質の多様、無尽の変容、想像と比喩の豊饒が、古来、多くの画家たちを水際へと駆り立ててきた。レオナルド、クールベ、モネ、モンドリアン。あるいは大観も。彼らはただ水のある風景を描きたかったのか。いや、むしろ根源的に、絵画の可能性を拓く仕掛けや問いかけを、そこに求めていたのではないか。その営為は、鋭敏な現代の作家にも引き継がれる。

 十月、水戸へでかけた。茨城県近代美術館の企画展「6つの個展2015」の間島秀徳の展示を見るためだ。間島は水のうねりや波涛あるいはその深みや重さを連想させる独特の作風で知られる実力派の美術家である。日本画の画材を主とし、そこにアクリル絵具も加えながら、質の異なる黒と青、白がせめぎあう大画面を生みだしていくが、その実践を特徴づけるのが、大量の水の使用だ。平置きした和紙貼りのパネルにたっぷり水を含ませ、さまざまな方向に傾けつつ、その水の動きを活かしながら、あるいはそれに導かれながら、イメージをつなぎ重ねていく。水を操りつつ、水に任せる。物理的な現象と技術のあわいをすり抜ける間島の描法は、どこか熟達の泳術を思わせる。

 水戸の展示室は天井高にも恵まれた比較的大きめの空間だったが、間島の絵画はそれを埋め尽くしてあまりあるものだった。屏風仕立てにこちらに開かれるもの、すなわち《Kinesis No.511(requiem)》(2012)と《Kinesis  No . 621(seamount)》(2014)は、藝大の日本画出身という間島の経歴とよく馴染むが、同時に、インスタレーション(空間に展開するアート)台頭期に活動を開始した芸術家らしいポスト近代性の発露ともみてとれる。壁の上部から床面へと大きくせり出す《Kinesis  No.548(seamount)》(2013)は、大小に旋回・交錯する墨の濃淡の流れが、青と相まって深く重い奥行きをつくりだす巨大な「掛物」である。横長の《Kinesis No.420(deluge)》(2010)と《Kinesis No.452(bright water)》(2011)は二段掛けにされて、開かれた絵巻のような、あるいはフリーズのような叙事性を帯びるだろう。かつて茨城五浦海岸の六角堂(明治期の美術指導者、岡倉天心の建立)内に横たえられた円形の絵画《Kinesis  No.215》(2004)は、今回は設置角度を変えて壁面に掛けられた。さらに最新作の《Kinesis  No.650(seamount)》(2015)が展示空間の奥を占め、そして出口の傍らでは、瀑布にも見立てうる《Kinesis  No.607(seamount)》(2014)が、一種のエピローグとして観る者を待つ。

 これら八点の〈Kinesis〉が、その基調をなす青と白の総量で、空間を満たし、我々を包みこむ。さらに、抑制された照明下、その深い色面から浮かびでる大理石粉の輝きが、観る者の遠近感を細かく、途切れなく揺さぶり続ける。端的に言えば、イメージとしてまたイメージ生成の手段・起源として、ここでは水が間島の絵画そして展示の場を間隙なく満たしているのだ。我々はその「水量」に圧倒され、また、不測の「水位」に心昂る。

 もちろん、サブタイトル(鎮魂requiem、大洪水deluge)や間島の故郷や現在のスタジオが茨城県内であることを思えば、絵画の「水量」と「水位」が隠喩を超えて、圧倒的なカタストロフィの経験と接することは否めない(上述の六角堂も東日本大震災時の津波によって失われた)。そうした思いに至るや、これらの絵画の前で、私は一瞬茫然とする。水はかくも重い。しかし、その一方で、間島の〈Kinesis 〉が2011年以前から繰り広げられてきた水との交渉の記録であることを見逃してはならないだろう。つまり、Kinesis(ギリシア語で運動の意)は、喪の身振りにも近づくが、もちろんそれのみではなく、根本において、水の動きを知り、それに合わせて動く、インターアクションの実践なのである。供犠ではなく「泳術」なのだ。水は変容する。その変化に絶えず応ずる絵画のKinesisこそが、画家、間島の求めるところなのである。そして、おそらくは、そこにこそ、水とともに生きる/生きねばならぬ我々にとっての示唆もあるはずだが、このあたり、結論は急ぐまい。あらためて間島の作品を見、考える機会を待とう。

 間島秀徳は今春から教育学部の教授を務めている。信州にかくも優れた「泳者」を迎え得たことは、学部を異にする私にとっても大きな誇りであり、また代え難い支えである。この山国にあって、彼の芸術が新たな、そして豊かな水脈となることを心より願う。(敬称略)

間島秀徳教授

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