アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語
信州大学医学部卒業生 故 谷垣雄三医師の軌跡
信大的人物

アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語
信州大学医学部卒業生 故 谷垣雄三医師の軌跡

アフリカ・ニジェール共和国における外科医療の向上ー献身的な努力をされた医師谷垣雄三氏の半生記ー

今年4月、信州大学医学部卒業生の藤森英之氏から、
アフリカで亡くなられたひとりの日本人医師を追悼するご寄稿が届きました。
医師の名は谷垣雄三氏、同じく医学部の卒業生(1967年)で、
かつてテレビ東京の番組「世界ナゼそこに?日本人」にも取り上げられ
秘境アフリカの貧国ニジェールで唯一の日本人でした。
私財を投げ打って異国の地に病院を作り、まさに波瀾万丈の人生を送られた
日本人医師の尊いお話を紹介させていただきます。(総務課広報室)


アフリカ・ニジェール共和国における外科医療の向上

ー献身的な努力をされた医師谷垣雄三氏の半生記ー

藤森 英之


※寄稿原文のまま掲載しています。

 100歳まで生きる人が珍しくなくなった現代である。昔から人生には山あり谷ありと言われるごとく、人はそれぞれその人なりの生き方がある。この事実は時代を超えて変わらない。ここに紹介する人物は穏やかな晩年とか引退や定年とは無縁の人である。たくましく生き抜いた一人の外科医 谷垣雄三氏の波瀾に富む後半生の記録である。
 彼は自然環境の過酷なアフリカ・ニジェール共和国に30 年以上滞在し、現地の外科医療の向上と外科専門医の養成に身を投じた。そして76歳で劇的な一生を終えた。
 谷垣雄三医師の初志を貫徹する生涯をたどると、人間臭い毅然たる生き様と同時に、貧困に苦しみ病気と闘う人たちへの人間味あふれる人柄が感じられる。
 ここでは故 谷垣雄三氏(以下、敬称略)の略歴、現地ニジェールにおける活動の一端に触れてみたい。



信州大学での大学紛争を経て埼玉・小川赤十字病院へ

 彼は京都府京丹後市峰山町に生まれ地元の小・中・高校を経て1961(昭和36)年に信州大学に入学した。その前年1月には米国との間で安全保障条約の改定交渉が妥結し、それを受けて立った全学連の抗議行動は、羽田空港、国会周辺のデモや警官隊との衝突にまで発展した(1)。

 新安保条約は1960年5月20日に強行採決され、その後岸内閣は退陣の意思表明をした。

谷垣はこうした安保改定など政情が不安定な時期に信大に入学したのである。彼はある意味この時代の「落とし子」であり、それが、その後の彼の後半生を措定したと筆者には思えてならない。

 一方で1967(昭和42)年には、東京大学の青年医師連合を中心に、燻っていた医局インターン制度や医師国家試験の反対やボイコットの狼煙が上がった。東大紛争の始まりである。

 この動きはやがて信州の地にまで及んだ。当時、谷垣は信大医学部自治会の委員長であったが、教授会との団交だけでなく、東大・安田講堂の占拠にも関与していたようだ。

 氏は1967(昭和42)年に信大医学部を卒業はしたものの、国家試験ボイコットやインターン制度廃止といった、全学連共通の主張である2つのスローガンに準じて国試をボイコットしたため、医師免許証を取得していなく、大学封鎖当時は土木工事などの肉体労働で生計を立てたと聞いている(2)。

 1970年に医師国家試験に合格した彼は、何ヵ月か船医の職を得て、その後1971(昭和46)年から東大の青医連の紹介で、埼玉の小川赤十字病院の整形外科医 東璋(ひがしあきら)氏(以下、敬称略)(1960年信州大学卒)の下で研修を始めた(2)。

 ところで東の所の谷垣は診察や簡単な手術に立ち会い、日を追うごとに腕を磨き実力を発揮していった。彼は将来は医療過疎地である秋山郷のような所で働きたいと常々話していた(2)。

 谷垣は小川赤十字病院での3年間の整形外科と麻酔の研修を終え、その後は結核予防会保生園病院外科、北海道社会事業協会帯広総合病院外科に勤務した(3)。

ニジェールとの最初の出会い

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 1979年アラビア石油株式会社の子会社が、アフリカの砂漠にウラン鉱脈があるとして試掘の小チームを派遣することになった。7人のチームが編成されたが、医者が1人いないと不安だと言うことで、同伴する医師を全国公募したところ谷垣が応募してきた(4)。

 このような経緯で彼はニジェールに1年3ヵ月滞在して帰国したが(3)、当時、ニジェールでは地方の医療事情がきわめて劣悪であった。そのことに衝撃を受けると同時に、これは何とかしなくてはならないと谷垣を突き動かしたのは、この一件にあったことは間違いなかろう。

 その時の経験を踏まえ1980年5月から1981年12月まで東京の小岩病院で外科の研修以外に、内視鏡検査の知識と技術を身に着ける努力をした(3)。それと同時に夜はフランス語を習得するためお茶の水にあるアテネ・フランセに通った(4)。

 ニジェール共和国は19世紀末から20世紀前半までフランスの植民地で1960年8月に独立したが、政情は不安定で内乱がいつ起こっても不思議でない国であった。経済的にも世界の最貧国の一つであり、日本の約3倍の国土に1,500万人の人口、1家族当たりの年収が1万円という状態である(5、6)。

 1981年に谷垣は「砂漠の国ニジェール」(6)という手記を公にした。これは彼が1979年サハラ砂漠のテキタンステムで10ヵ月過ごし、地元の遊牧民トゥアレグ族の生活や自然に魅了されてしまった体験記である。それは人間と動物の共存や砂漠の静寂への憧憬と感動であった。

 ここに滞在しているときにニジェール大統領が訪れた。大統領は日本人によるウラン鉱脈の試掘基地を視察し、谷垣の現地住民への医療活動に痛く感動し、彼にニジェールの病院で働くことを強く勧めたそうである(2)。

 谷垣は1982年1月JICAからニジェールの首都ニアメ国立病院に外科医として派遣された。そして1988年にはニジェール国立大学医学部の唯一の、あらゆる外科手術を担当できる外科医兼外科教授となった(4)。

 彼の外科手術の対象がいかに広範囲であるかは後述する(9)として、最大の課題と重要な任務はニジェールの地方における外科医療の向上とニジェール人外科医の養成であった。谷垣は10年もの長い間にわたりその職責を果たした。

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ニジェールで、看護師らとともに術後の患者に容体を聞く谷垣雄三医師(写真:読売新聞)

 1985年に彼が発表した「ニジェール国ニアメ国立病院」(3)には、「外科のベッド数250床に対し、手術室は4つで、週50例の定期の手術、他に毎日数件の臨時手術があるため手術室、術後管理室は現在でも限界にあり、新しい大学病院として対応できない状態になっている。」と記され、そこには腕を振るう超多忙な外科医 谷垣雄三医師の姿がある。

 外科ではほとんどが男性看護師で彼らは大学入学資格試験を通って、ニアメ国立病院に付属したENSPという学校に入学するか、カレッジを出て看護学校に入学するコースがあり(各コースとも120名)、ENSPを卒業すると高い地位と医学部に進学する機会が与えられ、「この2年間で外科だけで3人が医学部に進み、4名が外国に留学している」(3)という。

 こうしたキャリアのある看護師は患者の輸送から手術後の後かたづけ、雑用などを24時間体制で支え、外傷の縫合からすべての処置・検査まで行うので、医師は全身麻酔下で特別な手術を要する以外に呼び出されることがほとんどない(3)。

 谷垣は1980年代半ばごろトヨタのランドクルーザーをフルに活用し、1986年にはその車で表向きの理由はニジェール国内の観光とし、実は医療施設の現状をつぶさに観察する機会をとらえた(2)。

その時の基本データの分析を通して、彼は後のパイロットセンター構想の綿密な計画に着手していた。谷垣ならではの本当に用意周到の真骨頂を発揮したのだ。

 話が横道に逸れるがフランスで外科の専門医ライセンスを取得するには、外科の研修を5年した後、フランスの国家試験に合格することが必須条件であり、これをニジェール政府は踏襲している(4)。

 そのためか谷垣が1982年にJICAから現地ニジェールに派遣された当時、谷垣以外には人口1,500万人のニジェールに外科医が2人しかいなかった(5)。そうしたフランス流の厳しい条件をクリアして、谷垣が指導した2名のニジェール人医師に外科専門医を取得させたことは、驚きで特筆に値するような快挙である(2)。

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谷垣医師が開設したニジェールの外科病院「テッサワ・パイロットセンター」(写真:読売新聞)

 彼は1988年4月京都の第61回日本整形外科学会総会で、「大腿骨骨折後骨周囲感染症の治療について」を発表する予定であった。しかしJICAから帰国の許可が得られず、東(ひがし)が谷垣のペーパーを代読し、この発表後に彼は学位を取得し前述したように教授に就任した(2)。

 通常JICAの任期は2年で2期以上務めた者は皆無とされる。それを10年続けられた背景には、谷垣の苦労は覚悟のうえでこの道に入った経緯があるにせよ、熊谷義也氏のNPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]理事長としての力量があったからである。

 先に述べたように1982年当時、外科医はニジェール全土に2名だけだった。首都ニアメの国立病院で10年間の外科医療に専念した谷垣は、1992年首都ニアメから770km離れたテッサワに、文字通り案内人となるパイロットセンターを立ち上げた(8)。

 彼はその設立に際し、第1 に患者の負担可能な範囲で手術治療を行い、第2に外科医の養成を主眼に置いていた。すべて手探りの状態からの出発で悪戦苦闘の連続であった。

 このセンターは彼がJICAの支援を受けながらも、ニジェール政府の援助に頼らない、私財8,000万円を投じた外科医療施設であった(8)。ここで氏は過酷な医療事情に弱音を吐くことなく前述のとおり2名の外科専門医を養成した。これは谷垣の長年の念願であった地元の自立した医療機関の実現を象徴するマイルストーンでもあった。

 しかも彼はセンターを開設した年の1992年4月21日から11ヵ月にわたって、外来で処置可能であった事例と手術例の件数、当該センターの費用や患者負担分などの詳しい調査報告をJICAに提出している(9)。

 ここには谷垣の外科医としての広範な活躍の片鱗を見る意味で、煩雑ではあるが、彼の外来と手術で対応した事例について、事例数と病名を上位6位のみに絞って列挙してみる(9)。外来処置は全体で441例あり、縫合を要する傷が105例で一番多く、その他の外傷67例、膿瘍(のうよう)切開44例、骨折36例、尿閉28例と多発外傷26例となっている。

 手術例については全部で596例あり、最も多いのがその他に分類してある腹部腫瘍(しゅよう)、甲状腺腫(せんしゅ)やその他一般外科の158例、次に多いのは鼠経(そけい)ヘルニアを筆頭に腹部、大腿ヘルニアの152例、表在性腫瘍ではガングリオンや脂肪腫などの良性腫瘍が最多で110例、悪性は6例、次に胃・腸閉塞(へいそく)を伴う病気として後期の嵌頓(かんとん)ヘルニア19例、成人の幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)12例、腸閉塞11例、尿閉を伴うものに尿路結石32例、前立腺肥大9例、機能的出産不能が31例である。

 一般の方々には馴染みのない病名の羅列であろうが、精神科医の筆者から見て、これだけ多彩な疾患と多くの事例に、谷垣医師が対処したことに驚きを隠せない。助手の協力があるにしても、彼が執刀医として職務を遂行していることに頭が下がる思いがした。

 それはさておき彼の人柄をしのばせるエピソードがある。小川赤十字病院での3年の研修が終りに近い暮れのある日、谷垣は東(ひがし)に「1週間休みをください」と言ってきた。聞いてみると厳冬期の北アルプスを単独で縦走踏破するというのだった(2)。

 周囲の者がこの季節の単独行は危険だからといくら止めても応じようとしなかった。彼の妻の話では「主人はいったんこうと決めたら、誰が何と言おうとダメなんです」とある。山男の彼は前年夏の間に途中の山小屋に食料を備蓄し、冬季のビバーク訓練をしていたのだ。まさに「無謀」の裏に綿密な準備である(10)。

 ところでパイロットセンターの職員は谷垣医師、研修医2名、看護師6名、看護師から養成した麻酔士1名、検査技師2名、看護助手4名、門番1名、運転手1名であった(11)。

 中原美佳氏(11)によると施設の医療器材はほとんどがJICAの支援で、通常の手術に必須のものは整備され、谷垣はルーティンの外科手術だけでなく、広範囲の手術に対処していた。

 ただ手術に用いる酸素はテッサワの現地から遠く離れた首都ニアメからボンベで運ぶためコストが高くつくので、多くの手術は局麻かケタラールに頼るしかなかった(2)。

 このように手術に欠かすことのできない薬品だけでなく、種々の材料についても潤沢にあるわけでないから、その使用を最少のぎりぎりのところまで切り詰めていた。

 谷垣は現地の患者にとって医療費の負担をできるだけ軽減できないかと苦慮し、例えば「外科で使う手袋は台所用の薄手のものを消毒し直して何回も使う。縫合に使う糸(縫合糸)はミシン糸で十分、ビタミン剤や抗生物質は一切使用しない。」(5)を眼目に揚げていた。

 それだから谷垣の倹約精神は徹底したものだった。再利用できるものは破棄するのでなくすべて活用する。術後検査は基本的には必要なとき以外はまずしないのが原則になっていた。輸液も術後の当日抜去がほとんどで、長くて1~2日ぐらい。ドレーン類は平均2日で抜去するのが谷垣流であった(11)。

 ガーゼ交換は1日置いて週3回。綿球は創部に残存し不潔だから、ガーゼを何枚も使用して消毒する。胃切除患者であっても1ー2週間で元気に退院していく(11)。こうしてみると日本との違いに目から鱗が落ちる思いがする。

 このような谷垣の施設に患者は何日もかけ遠くの砂漠地帯から牛車やラクダの背に乗って来るのである(12)。ちなみに横浜のロータリークラブは1985年から彼の支援をしてきたが、その仲間と東(ひがし)はニジェールを訪問し、付き添いの家族が、病人に寄り添い、献身的な介護をしていたのを目の当たりにした(2)。

 そうしたニジェールの人たちは谷垣に会うと、「ドクトゥール・タニ(谷)」と親しげに呼びかけ、わが子に「ユゥゾー(雄三)」と名付けた親もいた(2,11)。周りの住民だけでなく遠来の患者も、彼の人柄に敬意と親愛の情を表していたからだ。

 前にも触れたように1970年代の後半以降、谷垣は慶応大学出身のNPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]の理事長熊谷義也医師の知遇を得ていた(5)。公私ともに支援の手を差し伸べられた熊谷医師の存在があったからこそ、彼の執念であったアフリカ・ニジェールにおける地域医療の向上という信念が現実のものとなったのだ。

 その他に谷垣が帰国すると必ず訪ね身体チェックをしてもらう信大卒の1年先輩がいる。その人は千葉県・柏市の名戸ヶ谷病院理事長 山崎 誠医師で、ニジェールへの短期間の医師派遣を含め種々の面で谷垣の医療活動を応援してくれた(2)。

ニジェールの地域医療への更なる挑戦

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「テッサワ・パイロットセンター」で手術を行う谷垣医師(写真:読売新聞)

 医療器材の節約は前述したとおりだが、谷垣はその他に彼の母校峰山(京丹後市)の小・中・高校の同級生とか地元の方々が提供してくれた、タオルや新聞紙などを手術の前後に活用した(7)。

 谷垣の日常がどのようなものであったかは、同じく彼の同期生の紀行文で明らかになる。谷垣は平井英子氏(13)がニジェールに滞在した際に、多忙な日常にもかかわらず、皆を地元に迎える細かなスケジュールを組み、それだけでなく、手料理でもてなしてくれたそうだ。

 ところで谷垣のパイロットセンター構想(1992)は、その後2001年にJICAとの契約期限が切れ、当時ニジェール政府が、世銀や他の国から多額の援助資金を調達し「人民プロジェクト」を創設したことで、それまでの基本路線を変更せざるを得なくなった(8)。

 肥田和子氏(8)はこの間の経緯を細かく記している。それによるとニジェール政府は外部からの資金援助の追い風に乗って、外科病院を36ヵ所新たに増設するといった方針を打ち出した。そうした動静を探ろうとした谷垣であったが、相手はニジェール国であってしかも政府の意向の前に、彼は万策尽きてセンターを撤退する以外に打つ手がなかった。

 そこで彼は2002年にテッサワ中央診療所の隣の敷地に新たに第2次パイロットセンターを開設した。ちょうどその時から前述の京都・峰山の地元や同期生による谷垣支援プロジェクトが発足した。

 しかし、さらに追い打ちをかけたのが、2006年人民プロジェクトに維持費として、更なる援助資金が、世銀やフランス政府から提供されたことであった。

 そうした経過でパイロットセンターは、2007年の初頭から3ヵ月間の閉鎖に追い込まれ、谷垣は1月に日本に一時帰国したが、4月になるとニジェールの厚生大臣は、谷垣の医療活動を支持する公式の見解を表明した。彼は運命に翻弄され再び波瀾含みの人生が始まった。

 彼のセンターでは2007年まで年間1,000件もの事例を年中無休で手術していたが、それが2010年には看護師2名、看護助手5名の体制で、受け入れ可能な患者に絞り、年間400件ほどのケースになったといわれる(8)。

 さて話は変わるが谷垣は、これまでのセンターにおける外科医療の実態を、「地方外科改善のためのテスト機関」のレポートにまとめ上げた。それはフランス語で書かれた百数十ページのもので英語にも翻訳され、ニジェールの厚生省、大学、WHO、JICAに提出された(8)。

 1994年にこれまでの谷垣の業績に対し、読売新聞社から国際医療功労賞が授与された。

予期せぬ出来事である妻の死を乗り越えて

 如何ともしがたい問題は不意にやってくる。悲劇は地域の外科医療を先導するパイロットセンターが始動して数年たったときだった。彼の妻静子夫人は原因不明の高熱に苦しみ、1999年5月23日に亡くなられた(8)。谷垣は最愛の妻を突然病気で失うという苦境にめげるどころか、まさに執念と信念とに突き動かされ、地域の外科医療の向上のため日常診療に邁進した。

 それにつけてもこのような地域医療への谷垣の挑戦にもかかわらず、先にも述べたようにほぼ10年になるパイロットセンターは、2001年ニジェール共和国のご都合主義によって閉鎖に追い込まれた(8)。

 この理不尽な要求には谷垣でなくても憤りを感じる。そればかりか既述のとおりJICA からの単独派遣の支援も終了し孤立無援となってしまった。

 ニジェール共和国でのこのような地道な努力と波瀾に富む谷垣の半生に対し、2008年シチズン・オブ・ザ・イヤー賞を、2009年には第16回読売国際協力賞が授与された(7)。

 ここまで谷垣雄三医師の全盛期の一端を振り返ってきたが、彼は2017年3月7日ニジェール国のテッサワで76歳の天寿を全うされた。彼の後半生は何度となく波瀾を呼び、修羅場をくぐり抜ける生涯であった。ただその最期はあまりにもあっけなかった。これだけは残念でならない。

 最新のニジェール支所便り(14)によると、2017年3月10日朝、谷垣雄三先生の告別式が彼の自宅裏庭で執り行われ、生前からの遺志どおり、ご遺体は静子夫人の墓の横に用意された場所に丁寧に葬られたとある。

 参列者は在コートジュボアール川村大使、大統領名代のマラディ州知事、テッサワのカントン長、地域の指導者、村人、過去の教え子の医師たち、パイロットセンター職員であった(14)。

 谷垣が未知の国アフリカのニジェールに心を奪われた最大の魅力は何であったのだろう。

 それはこの大地の過酷な自然と貧困にへこたれることなく生きる人たちの優しさと温かさにあったと筆者は思う。それを彼は常々診療の場で患者から肌で感じていたのだ。

 他方で谷垣は砂漠の厳しい自然環境で生活し、海上の穏やかな凪に感じるような、現地での一時の清風と静寂の豊かさとに癒されたのではなかろうか。

 彼の人柄は一方の極に寡黙と実直、執念と信念が、他方の極には感動と憧憬、忍耐と挑戦があり、これらの両極が対立するのでなく均衡している(15,16)。この特異な天性が過酷な環境や逆境に立ち向かい、患者との触れ合いでは思いやりと優しさとして発揮された。

 谷垣雄三先生、学兄が半生を捧げこよなく愛したアフリカ・ニジェールの大地。そこには貴兄の最愛の妻 静子様が眠っておられます。あなたは未知の国ニジェールの首都ニアメや地方のテッサワに、日本人の外科医として後世に長く語り継がれる功績を残されました。

 どうか奥様の墓標の隣で、ゆっくりと長かった旅路を思い出され、これまでの疲れを思い切り癒してください。神の祝福がありますように(完)。

藤森 英之(1960年信州大学卒、精神科医)

参考資料

1)『近代日本総合年表』: 岩波書店、東京、1968年
2)東 璋: 私信による
3)谷垣雄三: ニジェール国ニアメ国立病院 病院44巻8号、714(86)-715(87) 1985年8月
4)熊谷義也: 私信による(2017年5月9日)
5)熊谷義也: ニジェールで医療30年 原住民の健康を守りつづける、谷垣先生の和を広げたい。谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』30-31pp所収、2011年2月25日
NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]
6)谷垣雄三: 砂漠の国ニジェール『ニジェール医療報告』1999年総医研会報No.14掲載
7)肥田和子: 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』2-3pp所収、2011年2月25日
NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]
8)肥田和子: 幾たびもの転機と苦難を乗り越えて 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』4-5pp所収、2011年2月25日
NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]
9)谷垣雄三: 業務報告書(No.3)(国際協力事業団、医療協力部、部長)1993年9月15日
10)読売新聞: 〔朝刊〕2009年(平成21年)10月20日
11)中原美佳: ニジェールで医療活動を経験して ー看護婦からみたテッサワパイロットセンター 『ニジェール医療報告』1995年総医研会報No.10掲載
12)東 璋: ニジェール・谷垣医師への支援について・・・11年間の医療活動に・・・
『ニジェール医療報告』1993年総医研会報No.8掲載
13)平井英子: 谷垣医師宅での10日間の滞在 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅
『ニジェール紀行』6-16pp所収、2011年2月25日
NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]
14)ニジェール支所便り: JICAニジェール支所 2017年4月号(山形編集長、佐々木企画調査員)
15)藤森英之: 追悼 谷垣雄三先生の軌跡 信州医誌65巻4号,227-228,2017
16)藤森英之: アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語 信州大学医学部卒業生
故 谷垣雄三医師の軌跡 信大NOW vol.106, 2017年7月31日(隔月発行)

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