池上彰氏とのトークセッション 信州の高等教育黎明期特別レポート
Talk Session featuring Ikegami Akira 2019.6.1
令和元年6月1日、信州大学は創立70周年、旧制松本高等学校100周年となる記念式典を挙行。
セレモニーに続いて名誉博士号を授与された池上彰氏らによるトークセッションを開催した。
お相手は信州大学渡邉匡一副学長、コーディネートは信大広報アドバイザーの朝日新聞社川﨑紀夫氏。
「信州の高等教育黎明期」と題し、『信濃の国』の逸話、長野県に旧制高校や大学を誘致した時代の話、旧制高校の教養主義と学生自治…改めて信州大学の伝統と誇りを認識できる趣深いトークセッションとなった。
・・・・・ 信州大学広報誌「信大NOW」第118号(2019.7.31発行)より
浅井洌と『信濃の国』。「信州」が総意である経緯とは
川﨑紀夫さん(以下、敬称略) さて、本日のトークセッションですが、テーマが2つあります。まず1つ目は「『信濃の国』と信州」。2つ目は、「信州大学の高等教育 知の森の歩み」。旧制松本高校の歴史について繙いていきたいと思います。
では最初のテーマである「『信濃の国』と信州」について。まず長野県民のほとんどが知っているという県歌『信濃の国』。6番までありますが、なかでも「1番は歌える」という県民が多いですよね。
さて、『信濃の国』の作詞者・浅井洌ですが、信州大学の前身校のひとつである長野県師範学校(現在の教育学部)の先生でした。歌詞が誕生したのが明治32年。その翌年、現在の曲が付けられました。とても良くできた歌詞ですよね。長野県をすべて網羅しているといわれています。
池上彰さん(以下、敬称略) いや実は、私も網羅していると思っていたのですが、話を聞いていたらどうやら全てを網羅してはいなかったとか・・・。
渡邉匡一 そうなんです。実は、野沢温泉村や山ノ内町といった長野県の一番北側の地域については歌われていない。この地域の方達は改めて自分たちの郡歌を作ったという話もあります。
川﨑 この『信濃の国』、かつて長野県で騒動になった「分県論」にも関わっているそうですね。
池上 今でも長野市と松本市は仲が悪い、なんて言われますが、長野県には、県を北と南の二つに分けようという「分県論」が、明治の頃から存在していました。この北と南を統合する役割を担ったのが『信濃の国』だったようですね。
渡邉 おっしゃる通りです。『信濃の国』は北と南だけでなく、各地域の独自の文化・自然を紹介しながら、信州はひとつであることを歌っている。多様な文化や歴史を認め合いながら長野県をひとつにまとめる効果が、この歌にあったことは確かだと思います。
池上 昭和23年、「分県」が決まりそうになった当時の県議会で、『信濃の国』の大合唱が起こり、結果分県が立ち消えになった、という話も伝わっていますよね。これが本当に自然発生的だったかどうかは定かではありませんが…。
川﨑 いろいろな逸話を残すほど、県民に浸透している県歌は全国的にも珍しいですよね。
長野県の旧国名「信濃国」は、「信州」という呼び名もあります。大学も「信州大学」。似たような歴史がありそうですね。
渡邉 遡れば奈良時代の律令制度の中で「信濃国」は生まれ、江戸時代になるとたくさんの藩がつくられ、それぞれの地域で多様な文化、歴史を背負いながら暮らしてきました。その全ての人たちが「自分たちはどこに住んでいるのか?」と問われたときに、納得できる言葉が「信州」だったのではないかと思います。
池上 東北、九州など、地域を包含する名称を持つ大学はありますが、ほとんどの国立大学が県の名前を付けています。「信州」という名称を使ったことに、信州大学の独自性を感じますよね。
川﨑 信州大学も各地にあった前身校がひとつにまとまって生まれています。『信濃の国』のように、それぞれの歴史を認め合いながら、ひとつになるための言葉が「信州」だったのですね。
幻のナンバースクール。旧制高校と学生自治
川﨑 ここからは、「信州大学の高等教育 知の森の歩み」をテーマとし、旧制松本高等学校の歴史について振り返っていきたいと思います。
渡邉 日本の旧制高校のうち、番号を冠した高校のことを「ナンバースクール」と呼んでいます。まず設立されたのが、第一高等学校から第五高等学校。当初は地区ごとに番号が振られました。現在の東京大学や東北大学、京都大学などに当たります。その後は設立順になり、松本は7番目にほぼ内定していましたが、最終的には鹿児島に決まりました。
川﨑 当時は日本の各地で熾烈な誘致合戦が繰り広げられていた…といわれていますよね。
渡邉 そのようです。その後、松本は9番目に内定します。今度は確実…と思われましたが、時局はまさに第一次世界大戦へと向かう最中でした。決定はしたものの、そのまま放置されてしまいます。
川﨑 紆余曲折を経て、大正8年、ナンバースクールではなく、松本高等学校として設立されることとなるんですよね。
渡邉 はい。ナンバースクールにはなりませんでしたが、9番目に選ばれたという強い自負が、当時の松本高校にはありました。校章に9本の線が入っているのは、その表れです。ただし、当時の松高生には、「かっこ悪い」「車輪のようだ」と、かなり不評だったようですが(笑)。
また、結果的に松本高校は、全国に高等教育機関を増やしていくことを目指した、国が進める新しい高等教育施設の先駆けとなりました。旧制松本高校の校舎は、今は「あがたの森文化会館」として保存されていますが、実は、松高以降に全国でつくられた旧制高校の校舎は、これにそっくりなんです。
川﨑 建物の面でも松本高校が新しい高等教育のモデルケースになった、ということですね。
池上 それでは9番目ではなく、“一校”ですね?
渡邉 そうですね。“新一校”と呼べそうです。
川﨑 渡邉先生は旧制松高時代の「思誠寮」の研究もされていますよね。
渡邉 現在の信州大学も県外出身者が多いのですが、松高時代も県内・県外出身者が約半々でした。ほとんどの学生が暮らしたのが「思誠寮」で、今に続く学生による自治寮です。現在の寮生にも根付く自治精神は、ここから始まりました。
川﨑 小説家・北杜夫さんも「思誠寮」で暮らしたひとりですよね。エッセー『どくとるマンボウ青春記』の舞台でもあります。当時の「バンカラ」な気風と、現在にも受け継がれる自治精神は「思誠寮」の特徴ですよね。
池上 『どくとるマンボウ青春記』、若い頃に読みましたが、「旧制高校はなんて学校なんだ」と思うような描写がある一方、「何だか楽しそうだな」と感じましたね。勉強の話なんて全く出てこない(笑)。
川﨑 …と、思わせながら、実はこの時代の学生は、かなり勉強していたそうですね。
渡邉 勉強するのが当たり前ですから、そういう話はあえてしなかったのだと思います。
池上 いろいろな武勇伝が出てくるので、勉強なんていつしているんだろうと思っていましたが、そうではないんですねぇ。
渡邉 そうではないと思います(笑)。彼らの中には、「いずれ自分たちが日本を背負っていくんだ」という強い自負がありました。専門分野の勉強は当然で、むしろ、文系・理系関わらず、哲学や文学などの教養を身に付け、話ができなければ相手にもされなかったようです。「話についていけないのが怖くて、とにかく時間のある時は図書室に行って全集などをひたすら読んでいた」というエピソードを話してくれた卒業生の方もいます。旧制高校が「教養主義」を重視していたことも背景にあっただろうと思います。
川﨑 旧制高校を卒業するとおおよそ20歳。その位の世代が国を引っ張っていこうという強い思いを持っていたという事実は、現代に置き換えて考えるとすごいことですよね。
池上 当時の“良き”エリート意識、といいますか、気概を感じますね。現代の学生たちも、「これからの信州を支えていくんだ」というような、“良き”エリート意識を、もっと持っていいように思いますね。
渡邉 そう思います。当時は限られたエリートしか選挙権が持てませんでしたが、今は誰しもが選挙権を持つ時代です。ただ「すごいな」と感心するだけでなく、松高生から学ぶべきことが数多くあるのではないでしょうか。
川﨑 最後に、未来の信州大学に期待することをお聞かせいただけますか。
渡邉 今日は、100周年を迎えた旧制松本高校の歴史を中心に振り返ってきましたが、各キャンパスには、それぞれの地域の文化や歴史に根付く前身校があります。その文化や伝統を尊重し、敬愛しながら、ひとつにまとまってきた歴史が信州大学にはあります。そう考えると、信州大学は連邦国家のような場所だといえるかもしれません。その側面が、将来も、信州大学の独自性につながっていくように思います。
池上 日本は都市部に学生が集中し過ぎているという、大きな課題がありますよね。日本全体がバランスの取れた成長をしていくには、若者たちが都会に集中している現状は、やはり問題があります。それを解決するためには、それぞれの都道府県に、しっかりとした高等教育機関―「知の拠点」があることが大切です。
渡邉先生がおっしゃる通り、長野県は地域ごと、独自の文化や伝統があります。信州大学は、そんな各地域に「学びの場」を持っている。その良さが、やはりあると思うんですよね。これまで先輩たちが築いてきた歴史を踏まえながら、「知の拠点」として、ここからさまざまなことを発信する。ぜひそんな大学になって欲しいと思います。
川﨑 これまでの卒業生を数えれば約10万人。先輩方が築いてきたものを未来につないでいくことも、これからの信州大学に求められていることですね。
池上さん、渡邉先生、本日はどうもありがとうございました!