DXの先がけ、信大SUNS。 2020.10.2 SUNSをめぐる関係者座談会特別レポート

DXの先がけ、信大SUNS。2020.10.2 SUNSをめぐる関係者座談会

1985年、5つの分散したキャンパスを遠隔講義で結ぼうとする大学初の試みが始まった。

 長野県下5ヶ所にキャンパスが分散する信州大学は、1949年の開学以来、キャンパス間の連携が課題となっていました。1985年、長年の課題克服のため、信州大学独自の画像情報ネットワークシステム=“SUNS”(通称:サンズ)(※1)が構想されます。美ヶ原を中継局に、マイクロ波無線回線(19Mb/s)によって、映像、データ画像、音声などのマルチメディアを同時多重中継できる遠隔講義・会議システムを整備し、各キャンパスを一元的に結ぼうというのです。
 社会的にもデジタル化が進んでいなかった1988年に本稼働を開始。1993年には全キャンパス間で遠隔講義を実現した画期的な放送通信システムSUNSは、現在急速に進むDXの先駆けとも言うべき存在でした。その後も、光ケーブルや高速通信技術などの発達に伴い、新SUNS、SUNS2020へと移行。信州大学の30年間に及ぶ遠隔講義・会議を支え続けてきました。「withコロナ」のニューノーマルとして注目されるリモート授業のベースともなっています。
 2020年10月2日、SUNS創設・発展に関わった教員、職員が集まり、リモート座談会を行いました。2021年秋には、大学史資料センターの企画展が予定されています。(文・柳澤 愛由)


・・・・・ 信州大学広報誌「信大NOW」第124号(2020.11.30発行)より

(※1)信州大学画像情報ネットワークシステム(Shinshu University Video and Data Network System)の略称。フルネームは当時教授の近藤昭治氏が命名。現在、信州ユビキタスネットシステム(Shinshu Ubiquitous-Net System)として、SUNSの名称は引き継がれている。

5-1_1.jpg

分散する学部をテクノロジーで結ぶ「総合大学院構想」が原点

1.jpg

SUNSの中心となった「美ヶ原中継地」。
民間テレビ局SBC信越放送の協力により建てられた。
photo:中澤隆繊維学部事務長提供

2.jpg

当時のパンフレットに掲載されたSUNS概念図。美ヶ原中継地を中心に、各キャンパスに1本、パラボラアンテナが建てられた。若里―西長野間は実際には光ケーブルに変更。

福島正樹特任教授(以下職名略):1993年、全学をマイクロウェーブと光ケーブルで結ぶという壮大なネットワークシステム「SUNS」が完成しました。今回、その歴史を振り返るため、創設から維持発展にまで関わった関係者の皆さんの参加を得て、リモート座談会を企画しました。まず、構想段階で大きく関わった大谷先生から口火を切って頂けますか。

大谷毅名誉教授(以下称号略):SUNSの発想の原点は、1980年代に当時の北條学長が打ち出した「学部の枠を超えた博士課程の総合大学院構想」にありました。当時、信州大学で博士課程があったのは医学部だけ。特に理工系の総合大学院構想は、教育、研究の質的向上を目指す上での悲願でした。しかし、まだ通信技術が発達していなかった時代に、どのようにして数十キロ離れたキャンパス間をつなぎ、学部の壁を越えた研究・教育を進めるのか―。そこに、最大の課題がありました。そこで出されたのが、SUNSの原型であるネットワークシステムです。
 当時、電波法が改正され、電波の自由化と規制緩和が国の施策として進んでおり、大学もマイクロ波の無線局を開局できる可能性がありました。その波に乗ろうと、郵政省にも何度か足を運び、コネクションを辿りながら、関係諸方面とさまざまな交渉を重ねたことを覚えています。

福島:無線局開局の許可を得るまでに相当な苦労があったのですね。次に技術的な面で関わられた近藤先生、お願いします。

近藤昭治氏(以下敬称略):私は信州大学に着任する前、今でいうNTT、当時の日本電信電話公社の研究所に所属していました。その頃に、SUNSに関わる技術はほぼ全ての分野で携わったことがありましたから、気持ち的には楽にお手伝いすることができましたね。
 画像のデジタル化技術はまだまだ発達していませんでしたから、バレーボールの試合のような動きの速い動画を圧縮するには難しさがありました。しかし講義のようなあまり動きのないものであれば問題がないことを確認し、建設を進めていきました。パラボラアンテナは向きを3度違えるだけでも電波が通らなくなってしまいますから、アンテナ建設にあたり、電波がきちんと通るのか、業者の技術者と一緒に山に登り、テストを行った思い出もあります。

学内の技術者も養成し、当時の最新設備を導入した壮大なシステム

3.jpg

信州大学長野(工学)キャンパス(当時名称:若里キャンパス)に建てられたパラボラアンテナ。

4.jpg

教育学部に設置されていた旧SUNS講義室にあった大画面マルチモニタ。1997年度~設置された。

福島:SUNSの構築には信州大学の技術職員の皆さんの尽力がありました。その一人である、元信州大学職員の波多腰栄一さん、お願いします。

波多腰栄一氏(以下敬称略):大谷先生がおっしゃる通り、SUNSは、信州大学として学術的に一歩前進しようという思いが根底にありました。当初の目的であったドクターコースの大学院設置こそ、当時は達成できませんでしたが、現在は総合医理工学研究科の設置が実現しています。その足掛かりとしても、SUNSはひとつの役割を果たしていたのではないでしょうか。
 SUNS設置にあたり一番苦労したのは、高効率な電波枠の取得でした。中継局をできる限りつくらず映像や音声をやり取りするためには、7.5GHzという高効率な周波数帯を得る必要がありました。大谷先生、近藤先生と一緒に、郵政省本省・信越電気通信監理局(現信越総合通信局)を何度も訪問したことを覚えています。
 SUNSの電波塔は「美ヶ原中継地」を中心に、各キャンパスに建てられました。今はその役目を終えた電波塔ですが、業者の方から「風速80メートルの風が吹いても倒れない鉄塔」だと言われたことを思
い出します。

福島:SUNS完成に伴い、職員数名が特殊無線技士などの資格を取得し、運用に当たる学内体制の整備も進みました。学内の技術者として、瀧澤さん、中村さんはどの辺りから関わられたのでしょうか。

瀧澤君明氏:私とSUNSとの関わりは、近藤先生に「瀧澤くん、通信技術の免許の一つくらい取ったらどうだ」と言われたことが始まりでした。SUNSが稼働してからはその保守管理全般に携わり、近藤先生の指示に従って仕事を進めていきました。

中村勇雄氏:私は繊維学部の電気系技術職員として、保守管理に当たりました。繊維学部に鉄塔が建てられたのは、1990年。その1年程前から資格取得の勉強を始めていたように思います。業務用の多重無線については知識がありませんでしたから、非常にいい勉強になりましたね。

波多腰:中村さんや瀧澤さんをはじめ、SUNSの保守に当たっては、全キャンパスで5名程に資格を取得してもらいました。電気系の基礎知識を持ち、かつ電波の基礎知識もある人材を信州大学として養成し、保守管理体制を整えていきました。

遠隔医療の先鞭をつけたSUNS設計思想の先進性

6.jpg

福島:今年3月まで総合情報センターのセンター長を務められた不破先生はいかがですか。

不破泰教授:私が関わり始めたときにはすでにSUNSが完成していたので、その活用と応用が仕事でした。SUNSを使った効果的な授業をどのように行ったらいいのか、学生たちにアンケートを取りながら試行錯誤したことを覚えています。e-learning、遠隔授業の走りのような取り組みであったと思います。
 授業だけでなく、SUNSは病院間の連携にも応用されました。工学部のすぐ隣に長野赤十字病院があるのですが、そこと、信州大学医学部附属病院とを結ぶSUNSのチャンネルをつくり、レントゲン写真を相互に送るという仕組みをつくりました。今の遠隔医療の走りのような取り組みでした。応用の面でも、信州大学の今に通じる基盤を形作ったように思います。
 初代SUNSと新SUNSとでは、通信技術の面では大きな変化があります。ただ、考え方として変わらないのは、講義の映像、音声、教材などの映像を同時に送る、という仕組みです。Zoomが似た仕組みを持っていますが、マルチメディアで対応しなければ授業にはならない、という思想は、30年前のSUNS構想時に既にあった。当時は1対1の通信がほとんどでしたが、複数の地点を同時につなぐというSUNSの考え方もZoomの考え方と似ています。そう考えるとSUNSがいかに先見的な思想であったかが、分かるのではないでしょうか。
 信州大学がワンチームで動くことで、これだけのことができるんだという事例のひとつだったと思います。人と人をつなぐ、地域と地域をつなぐというSUNSの姿勢や、それが築いてきたものは、現在の信州大学の在り方に大きく影響を与えたのではないでしょうか。

福島:2021年の秋に、企画展を予定しています。皆さんのご意見も頂きながら、展示を完成していきたいと思います。今日はお忙しい中、ご参集頂きましてありがとうございました。

7.jpg

教育学部に近年まで残っていた旧SUNSシステム。当時の先進的な機器が多数使われていた。

8.jpg
9.jpg

ページトップに戻る

MENU