松高生の青春日記特別レポート

松高生の青春日記

信州大学創立70周年・旧制松本高等学校100周年記念事業 プレイベント「信州大学今・昔」関連企画「昼どきセミナー」

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信州大学副学長(学術情報担当)・附属図書館長
信州大学学術研究院(総合人間科学系)教授
渡邉 匡一

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同じく平成30年5月に開催した昼どきセミナー、福島正樹特任教授による「信州大学誕生~なぜ『信州』か~」の様子。日本で唯一旧国名を冠する国立大学、信州大学の名称の由来を解説。

 今号巻頭では、信州大学および旧制松本高等学校の寮歌祭をご紹介しましたが、信州大学創立70周年、旧制松本高等学校100周年記念事業のプレイベントとして平成30年5月、附属図書館による昼どきセミナーにて「信州大学誕生~なぜ『信州』か~」と、今回ご紹介する「松高生の青春日記」を開催しました。将来の国家指導者として厳重な管理下におかれ、ほぼ戦争とともに歩んだ30年の歴史の中で当時の様子、人としての成長、また心の葛藤などが、貴重な日記から読み取れます。講演した信州大学副学長(学術情報担当)、附属図書館長の渡邉 匡一教授による解説でいくつかの印象的な日誌を紹介します。

・・・・・ 信州大学広報誌「信大NOW」第112号(2018.7.31発行)より

戦争とともにあった旧制松本高等学校の30年

昭和5年~8年(1930~1933) 第1~3次松高思想事件 治安維持法により多数の松高生が検挙
昭和12年(1937) 蘆溝橋事件発生、日中戦争始まる、思誠寮記念祭飾り付け中止、内閣に教育審議会設置、皇国民錬成のための教育政策を提案
昭和13年(1938) 国家総動員法公布、労働・言論などの統制、戦時体制の確立
昭和14年(1939) 国民徴用令、興亜勤労学生奉仕隊に松高生参加、渡満
昭和15年(1940) 大政翼賛会発足、校友会解散、報国団結成。 思誠寮自治制廃止、生徒課の統制下におかれる
昭和16年(1941) 太平洋戦争開戦
昭和18年(1943) 学徒戦時動員体制確立要綱発表、大学高専文科系学生徴集猶予撤廃、11月7日松高講堂で出陣学徒壮行会、12月1日第1回学徒兵入隊、徴兵年齢一年繰り下げ発表
昭和20年(1945) 敗戦
昭和25年(1950) 旧制高等学校廃止

名物行事であった 対寮駅伝大会中止

 昭和17年4月19日、対寮駅伝大会が空襲警報のサイレンによって中止となります。寮生たちは落胆しますが、国に非常時が差し迫っていることを実感し、学生としての義務を果たそうと気持ちを新たにします。

 入寮以来、僕等は、毎日/\駅伝にズクを出せ、一学期の最大行事は駅伝であると聞かされ、僕は、実に大なる、希望と、期待とを持つてゐた。此の為、僕は、是非選手にならうとして、未だ癒らない胃病をおして、頑張つたのであつた。然るに其の結果はどうであつたか。駅伝は遂に中止となつてしまつたのである。僕は、あの警報を聞いた時、直ぐに「中止せよ」、との言葉は浮んだものゝ、いや、此処迄やつたのだ。どうしても最後迄やりたいと云ふ考に打ち消されてしまつた。併しやがて我にかへつた時、僕は、「非常時」が、しみ/\感ぜられた。今迄自分は、高校生になれたといふ考で浮きつき、やゝもすると超非常時局を忘れ勝ちであつた。成程駅伝が中止されたのは辛い、併し、自分の眼前には、実に大きな職分がある、我々は、一旦緊急ある際には、他の総てを忘れ国の為に画さなければならぬのだ。今日分は以前の浮薄な気分を一掃して、真の我にかへる事が出来たのに嬉しく思つてゐる。
(昭和17年4月20日 中寮)

国家指導者となるための意識の高さ

 我々は将来の指導者である。人に先だって憂へること、一はやく/真の世界に目覚めて、若き真実の、誠の悩みに入ることが必要で/はないだらうか。/日本のハイデルベルヒとも言ふべき古き信州松本である。ザクソニア団に/も勝って居る筈の思誠寮である。時代の進歩により、我々の/責務も変って居る。真の恋愛に目覚めたハインツの如く、今日/日本の学徒たる我々、将来日本の幹となるべき我々は、/二年制高校生としても、はやく、いちはやく、真の高校生活、真の寮生活に/目覚めねばならぬだらう。我々の先輩、我々の兄は聖戦完遂/の為、戦闘してるんだもの。
(『思誠寮日誌』昭和18年4月10日 北寮)

空襲のない、平穏な松本で

空襲のない平穏な松本での生活のなかにも、戦争への覚悟、死への覚悟を問いただす寮生たちの思いが綴られます。

 兄貴が東京からやって来た。遽しい東京人の行動が/忘れて居た俺の心を刺激する。東京に於ける/生活は、生活そのものが、戦争であり、連日の/爆音は都会人の神経をいやが上にも鋭がらせる。/然し松本に於ける生活は一面に於いて戦争を/忘れ得る生活である。忘れ得る生活であるが故に/我々はそれを忘れ得ないのだ。/飛行機も飛ばな い。防空演習もない。食料不安/も深刻な影響を与へはしない。けれどそれは我々の/内的生活の根本的改革を要求して居るのだ。/精神生活を外的に切り変へると言ふことは出来る事でない。/然も戦争はそれを敢てするのだ。死と言ふことによって、/死に直面した時、その人の最も本質的なものが、/にじみ出て来る。そして表面はいかに虚偽に満ちた物/であっても、死に臨んだ時その人の生活は真実な物/になるのだ。/我々は今此の死に面せる生活を営んで居るのだ。/戦局が苛烈になるにつれて我々の生活は真剣に/なって行く。勿論それは戦争に熱狂せる刹那的/な生活であってはならぬ。/死に面する生活を如何に真実に、自己に忠実/な日々を送り行くかと言ふことだ。
(昭和19年4月30日 中寮)

旧制松本高等学校校舎

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 校舎は現在松本市あがたの森文化会館(重要文化財)となって多くの方が訪れています。今も残るうっそうとしたヒマラヤ杉と雪が当時の様子を忍ばせます。

校舎周辺と思誠寮

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 思誠寮の北・中・南寮の姿がわかる貴重な空撮写真。周辺にはほぼ何もありません。定員は100名前後(1学年は160人)、在寮期間は1年間でした。

思誠寮の自治組織

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 思誠寮は、総務部を中心に複数の自治組織によって運営されていました。また戦中には、自治組織ではないものの、道義修練部のような団体も、寮生活に大きな影響を及ぼしていました。

対寮マッチ「一丸となって“ズク”を出そう」

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 4月には入寮・寮対抗の駅伝大会、5月の対寮マッチでは、バレーボールやバスケットボールなど、様々な競技が行われます。駅伝や対寮マッチは各寮が一丸となって競いました。

炊事部

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 炊事部は寮生の食と健康を支えるため、創意工夫して献立作りに励んだことが日計表から伺えます。入寮歓迎晩餐会や記念祭の晩には、ご馳走が振る舞われ、寮生たちも心待ちにしていました。その費用を確保するため、安価に食材や食器類を調達することも、委員の腕の見せどころでした。

思誠寮の寮生日誌

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 附属図書館に所蔵されている昭和17年(1942)から19年(1944)までの寮生日誌。日誌は、それぞれの寮(北・中・南)で各部屋の担当者が執筆し、翌日は次の部屋へ、という具合に回覧されました。

寮歌・学生歌を歌い継ぐ、ということ。

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 平成30年5月「松高・信大寮歌祭」が、松本市あがたの森文化会館講堂ホール(旧制松本高等学校講堂)にて開催された。大正、昭和の激動の時代に、旧制高等学校の学生によって作られた歴代の寮歌などを歌い継ぐ、年に一度の恒例行事だ。毎年楽しみにしている方も多い。
 旧制松高や信大の卒業生、さらに全国から、法被や白線帽などを身に着けた、北大、一高、一橋(東商大)、愛知大予科、旅順工大、筑波(東高師範)、早稲田、横国大などの卒業生、そして一般の方など総勢140名が参加した。
 中でも、旧制松高思誠寮歌「春寂寥」、信大学生歌「叡智みなぎる」、「松本高等学校校歌」は、現役の信大生である信州大学交響楽団の伴奏、混声合唱団との合唱で、世代を越えた交流となっている。
 来年は信州大学創立70周年・旧制松本高等学校100周年という節目の年。同周年記念事業のスローガン「誇れる伝統、文化を未来へ」のとおり、歌い継ぐ文化も大切にしたい。


昭和18年11月24日、同じ会場となる講堂で撮影された「壮行の夕(ゆうべ)」と記録の残る写真。寮歌などを歌った戦時中の貴重な記録でもある。(提供:旧制松本高等学校同窓会事務局)

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