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歴史と伝統に基づいた人材づくり

  1. 歴史と伝統に基づいた人材づくり

信州大学は日本で唯一の旧国名を冠した国立大学です。その背景には大学名に象徴される各学部独自の歴史があります。その伝統を踏まえ、本学は長野県内の多くの地域に、しっかりと根を張っています。個性の違う歴史と伝統を持つ学部が集まり、それぞれの特色を大事にしながらも、信州大学全体として美しい独自の教育と研究を生み出していこうとしています。

歴史の重みを踏まえた人材づくりに取り組んでいます

日本で唯一の旧国名を冠した国立大学

信州大学は、1949(昭和24)年に国立の新制大学として長野県下の高等教育機関7校を集めて発足しました。この時には原則として県名が大学名になりましたが、私たちの大学は日本で唯一旧国名をつけました。

信濃の国

浅井洌直筆の「信濃の国」(教育学部所蔵)

皆さんは長野県歌「信濃の国」を知っていますか。長野県人なら誰でも歌える歌です。歌詞は旧松本藩士族で、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭であった浅井洌が1899(明治32)年に作りました。

その一番には
「信濃の国は 十州に 境連ぬる 国にして
聳ゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は 肥沃の地
海こそなけれ 物さわに 万ず足らわぬ 事ぞなき」
とあります。信濃の大きさ、4つの平、豊かさなどの特質が歌われています。

この歌詞のように信濃は河川や山などによって隔てられ、地域ごとに独特の文化をもっていました。信濃は1871(明治4)年の廃藩置県とその後の府県再編によって、長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県に分かれました。1876(明治9)年に筑摩県庁舎が焼失したことを機に、筑摩県が廃止され、同県が管轄していた旧信濃国の地域が長野県に編入されましたが、県民の一体感は希薄でした。そこで県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括して、みんなをまとめるこの歌詞ができたのです。このような歴史の中で、新制大学ができた折にも、長野でなく県域統合シンボルとして信州が冠せられたのです。

教育の風土

信州人は進取の気質にもえ、学ぶことで知られています。江戸時代松代藩の文武学校や松本藩の崇教館、高遠藩の進徳館などは有名です。 進徳館からは東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の初代校長を勤めた伊沢修二など、多くの人材を出しています。

1873(明治6)年長野県と筑摩県にはそれぞれ師範講習所が設けられ、翌年に筑摩県師範学校、1875(明治8)年に長野県師範学校ができ、長野県に統合されると筑摩県師範学校は長野県師範学校松本支校になりました。この重く長い歴史を受け継いでいるのが教育学部で、長野県だけでなく、全国に多くの教育者を送り出しています。

幻の第九高等学校

松本市あがたの森文化会館/重要文化財(旧松本高等学校)

教育熱心な長野県ではより高度な教育の場を目指して、旧制の高等学校の誘致に動き、1919(大正8)年に念願の松本高等学校ができました。翌年には現在「あがたの森文化会館」となっている校舎ができました(その校舎は現在重要文化財に指定されています)。まだ全国に高等学校は8校しかなく、松本高等学校は第九高等学校にあたりますが、これ以ああ降新設される官立高等学校は、地名を冠するようになりました。松本高等学校の校章では9本の放射状の線が、第九高等学校の意識を示しています。

1949(昭和24)年の新制大学の発足とともに、旧制松本高等学校は信州大学文理学部となりました。1966(昭和41)年4月、文理学部が改組され、人文学部と理学部にわかれました。1978(昭和53)年に人文学部が改組され、人文学部と経済学部ができました。2016(平成28)年に経済学部を母体として経法学部ができました。これらの学部は旧制松本高等学校の伝統をそのまま受け継ぎながら、理想に燃えて人間教育を続け、有為な人材を輩出しています。

産業の育成を背景に

日本の近代を支えた産業として蚕糸業がありました。繊維学部の前身は1910(明治43)年、当時の最先端科学技術を背景に蚕糸に関する最初の高等教育機関、また長野県下初の国立学校として設立された上田蚕糸専門学校です。その後、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、さらに1949(昭和24)年学制改革により信州大学繊維学部として発足し現在に至っています。繊維学部は日本で唯一、本学だけにしかない、ユニークな学部です。

また、長野市には1943(昭和18)年、第二次世界大戦下における工業技術者確保のため長野高等工業学校が設立され、翌年には長野工業専門学校と改称されました。信州大学発足にあたり、再生日本の産業立国への寄与と、長野県産業への人材供給を目的として、信州大学工学部となりました。

信州のイメージの中にはリンゴや高原野菜など、農林業も強いようです。農学部の前身は1945(昭和20)年、第二次世界大戦中に農産体制増強のために設立された長野県立農林専門学校です。1949(昭和24)年の信州大学設置に伴い農学部になりましたが、恵まれた環境のもとで日本の農業を支えています。

これらの学部は社会を豊かにするための新たな研究を続け、産業界を牽引し続け、同時に地域を豊かにする卒業生を輩出しています。

命を守り育てる人材を

信州大学が誇る医学部の前身は、1944(昭和19)年に設立された官立松本医学専門学校です。戦時中の医師不足を補う目的で設置されたものですが、1922(大正11)年より地元では熱心な招致運動が展開されました。旧制松本高等学校もそうですが、松本の人たちの熱い思いが背後に存在したのです。

1948(昭和23)年に松本医科大学となり、信州大学が発足すると医学部になりました。信州大学医学部附属病院とともに、最先端の医療を追求し、多くの成果を上げ、命を守り育てる人材を養成しています。

  • 平成25年度の入学式で初めて前身校のひとつ、旧制松本高等学校思誠寮寮歌「春寂寥(はるせきりょう)」が演奏されました。信州大学に受け継がれる全人教育の象徴となっています。

  • 旧制松本高等学校ゆかりの作家、「どくとるマンボウ」シリーズで知られる北杜夫氏のご家族から、信州大学附属図書館に寄贈いただいた「北杜夫文庫」希少本の一部。同じく同校ゆかりの辻邦生氏の写真も載る「筑摩現代文学大系」など。

  • 新発売された「信州大学こころの歌」。思誠寮寮歌「春寂寥」や学生歌「叡知みなぎる」など、バンカラで自由闊達な時代を偲ぶ歌が収録されています。