
「信州の秘境」と呼ばれる飯田市遠山郷。その最奥の上村下栗地区は、標高800~1100メートル、30~40度の急傾斜畑の中に9つの集落が点在 する「天空の里」だ。
戸数50戸・120人が肩を寄せ合うようにして住む。道路整備が進むとはいえ、依然として「隔絶した山村」と呼ばざるをえないこの地区には、し かし、食文化と結びついた各種伝統的作物や世界に誇りうる民俗芸能、そして人々の温かい心のつながりが、今もなお、営々として受け継がれている。
このような中山間「地域」をいかにして守り、そこから「現代」に何を発信するのか?―その視点から、地域の人々の営みをお手伝いするのも信州大学の重要な 役割だ。同地区で継続的に研究を展開してきた農学部大井美知男教授をはじめ、田園環境工学研究会の取り組みを追った。
・・・・・信大NOW61号(2010.1.27発刊)より
遠山郷の代名詞ともなっているのが「霜月祭り」。毎年旧暦の11月に約1カ月にわたり、11の神社で順次繰り広げられる。太陽の光が弱まる旧暦11 月(霜月)に、全国から神々を招き、生命の再生を願う。古くから伝わる神々の「面」をつけて舞い、煮えたぎる湯を素手で払う「湯切り」で、集落の無病息災 と五穀豊穣を祈る。国の重要無形文化財に指定された伝統行事だ。
2009年、下栗では、12月13日午後1時から、拾五社大明神で同祭りがあり、地元住民・帰省者・観光客が翌日の明け方近くまで、厳粛に、ま た大きな歓声を上げて楽しんだ。その際の挨拶で、下栗自治会長の胡桃澤三郎さんはこう語った。
「下栗芋を中心にした特産品づくり、地域づくりの中で育まれた力が、伝統の霜月祭りを支えている。力を貸して下さっている信州大学はじめ諸方面 の方々に心から感謝したい」
「下栗芋」とは、この地区に江戸時代から伝わる在来ジャガイモ品種。春から夏の食用と、初夏から秋のタネ芋用と、時期をずらして二度作付けされてき たことから「二度芋」の別名を持つ。田楽などにして食べ続けられてきた。一般のジャガイモ品種とは異なり国の管理外におかれているため、200年に及ぶ自 家増殖の間に複数のウイルスに犯され、収穫量が極度に落ち、消滅の危機に瀕していた。
この「下栗芋」を、ウイルス汚染から解放し、特産品として継続的な栽培が可能な品種に育んだ(これを「ウイルスフリー化」と呼ぶ)のが、農学部 の大井美知男教授率いる蔬菜園芸学研究室だ。
「平成16年から5年間で、収量が少ない原因が複数のウイルスに汚染されていることにあることを突き止め、汚染の有無を判定する簡易な方法を開 発し、さらに汚染されていない苗の栽培を進めてきました。いよいよ平成22年から、下栗全域で一斉にウイルスフリーの苗の植え付けを行ないます」と大井教 授。
下栗の農家を訪ね、タネ芋・苗・収穫した芋を観察・収集し、汚染されていない苗の成長点を取り出して育てるという、血の滲むような苦労の積み重 ねだった。農家と協力して、現地での講習会や実験栽培も幾度となく繰り返してきた。この結果、苗一本あたりの収穫量は、以前の3倍にもなったという。
デンプン価が高く肉質が硬い「二度芋」は、独特の味わいがある。これまた地元特産のエゴマ※の「じゅうねん味噌」を塗って焼き上げた田楽は遠山郷の名物で あり、煮物などにしても、他のジャガイモには替えられない味だ。ウイルスフリー化の進展で収量拡大の道が見えてきたのに沿って、遠山郷から飯田市へ、さら には東京の料理店や居酒屋へと、販路は拡大してきた。「霜月祭りの里・秘境遠山郷の味」は、それ自体で人を魅了する。用途拡大を目指し、下栗芋のせんべい や焼酎も新たに製品化された。軌を一にするように、これまた特産のソバ・豆・シイタケなどの栽培と販売も充実してきたという。
「下栗芋のことだけでなく、急傾斜地の農業のこと、山菜の利用実態、野生動物対策など、様々な分野で信大の先生や学生さんが研究に来てくれる。それ に下栗の人はとても勇気づけられています」と話すのは、地区の活性化のために様々な取組みを進める「下栗里の会」の代表、野牧武さんだ。
平成21年秋にも、下栗地区の新たな観光スポットにしようと、ビューポイントを設置する取組みを地区の人々ほとんどすべてが参加する形で行った という。「ちょっと前までは、下栗には何もないという住民が多かったけれど、今では、探せばお宝は山ほどあると思えるようになってきた」と笑う。
実際、「天空の里」と呼ばれる山間の急傾斜地・下栗には、自然環境と共に生きてきた人々の生活と文化がある。それは総合的な視点から研究され、 引き継がれて行くべき貴重な財産だ。30~40度もの急傾斜地を切り拓いて耕してきた下栗の畑は、土地の利用方法に様々な工夫がなされている。土地利用を 通じた土砂の流出の防止、獣害への対応など、多くの知恵と経験が刻み込まれている。この視点からは、農学部の木村和弘教授、内川義行助教らが研究を重ねて いる。
山間の地にふさわしく山菜や薬草などの採取・利用も活発だが、集落全体の高齢化によって、それに必要な知識や経験の継承も重要だ。農学部の上原 三知助教はその点を研究する。その他、ニホンジカをはじめとする野生動物による獣害対策なども、農学部野生動物対策センターの泉山茂之准教授らが、調査と 研究を進めている。
長野県内には過疎化・高齢化・農林地の荒廃・獣害などに悩む山間農業集落が約4500も存在するといわれる。こうした集落 で生じている問題は複合的であり、その根本的解決のためには、在来作物を核にした農業振興、土地利用の特徴とあり方、生産や生活のあり方―などを多角的に 研究した下栗での取り組みのように、総合的視野に立った粘り強い研究と現地サポートが必要だ。
さらに特産品の付加価値を引き上げるための食品機能性の研究、工学や理学などの理工系、医学系、伝統芸能や地域社会のあり方を探る人文系の学問 研究の力も必要になるだろう。
このような“オール信大”の総合的視野で、地元信州の「地域」の振興に資する―その先鞭をつけたものが、遠山郷・上村下栗の取組みであると言え よう。
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