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書物で繙く善光寺詣り : 1. 善光寺縁起について

日本では、古くから寺社の由来や沿革を説いた「縁起」が作られてきました。文章だけでなく、絵とあわせた絵巻や掛軸の体裁をとるものも見られます。
『善光寺縁起』はその名のとおり善光寺の由来を説いた書物で、平安時代には成立したと考えられていますが、時代の経過とともに様々な話が追加され、まるで生き物のように変化し続けました。善光寺の信仰は、長野市の善光寺を中心に、全国各地に広がっています。善光寺の由来を分かりやすく説いた『善光寺縁起』は、様々な場所で出版され、人々に善光寺のありがたさを伝える役割を果たしました。
本展示では、江戸時代から昭和時代までに出版された、4種類の『善光寺縁起』を展示しています。

「善光寺縁起」あらすじ

昔インドの毘舎離国に月蓋長者(がっかいちょうじゃ)という大富豪がいました。長者は、一人娘の如是姫(にょぜひめ)を大変可愛がっていました。ある時、国に疫病が流行し,姫もこの熱病にかかってしまいました。長者は姫の病を治そうと釈迦如来に相談し、一生懸命祈ったところ,阿弥陀如来が来臨して国中の病は治まり、姫も回復しました。長者の阿弥陀如来の姿を写し留めたいとの願いに、釈迦如来は、龍宮の宝物である閻浮檀金(えんぶだこん)で、阿弥陀如来と同じ姿の新たな仏(善光寺如来)を誕生させました。長者はお堂を作って如来を安置しました。
それから千年が過ぎたのち、月蓋長者は朝鮮半島の百済国に斎明王として生まれ変わったため、善光寺如来は百済国に渡りました。 百済国の斉明王が亡くなってさらに千年が経った頃、如来は、本朝(日本)へと渡り、欽明天皇の御所に安置されました。最初は崇められたのですが、物部守屋によって焼かれたり、難波の沖に捨てられたりしました。聖徳太子の活躍により守屋は討伐されますが、如来はまだ海の底に沈んだままでした。
その後、信濃国の住人である本田善光(よしみつ)が都を訪れた帰りに難波の浦に差し掛かると、水中から如来が現れ、善光に月蓋長者と斉明王の生まれ変わりだと告げました。善光は如来を背負って運び、自宅に安置しました。昼は善光が如来を背負い、夜は如来が善光を背負ったと言われています。
30数年後、善光の息子善助が突然死んでしまいます。如来は閻魔王のもとに赴き、善助とともに、舒明天皇の皇后も生き返らせました。このことを天皇が知り、天皇・皇后を始め、公卿殿上人までがお参りにやってきます。以後、現在に至るまで、阿弥陀如来のご利益が途絶えることはなく、人々は善光寺へと足を運ぶのです。
(『善光寺如来本懐』(室町時代)による)

『善光寺如来縁起』(ぜんこうじにょらいえんぎ)

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坂内直頼(さかうち なおより)編
元禄5(1692)年10月

元禄5年6月~8月、江戸回向院(えこういん)、江戸城三の丸で善光寺如来の御開帳(出開帳)が行われた。本書は縁起4冊に如来の霊験譚1冊の構成となっている。編著者、坂内直頼は、他に『本朝神社一覧』、『山州名跡誌』など著作が確認できる。京都の書肆、鈴木太兵衛によって刊行された。

『善光寺如来絵詞伝』(ぜんこうじにょらいえことばでん)

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卍空(まんくう) 編著
安政5(1858)年6月

弘化4(1847)年、御開帳の際に記された卍空の著作を、江戸寛永寺が中心となって、安政5年に再出版したもの。縁起6冊に付録1冊の構成となっている。「牛に引かれて善光寺詣り」の逸話や、「天王寺放光の弁」「聖徳皇太子十七箇条の略」が付載される。江戸の書肆、和泉屋庄次郎によって刊行された。

『善光寺如来絵詞伝』(ぜんこうじにょらいえことばでん)

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卍空(まんくう) 編著
明治45(1912)年4月

明治45年の御開帳の際、『善光寺如来絵詞伝』(安政5年)を活版印刷で再出版したもの。善光寺の大勧進が発行元となり、印刷も長野市の印刷所で行われた。
長野県物産展も併せて行われ、参詣客が100万人を超える大盛況となった。

『善光寺如来絵詞伝』(ぜんこうじにょらいえことばでん)

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本多賢道(ほんだ けんどう) 編著
昭和3(1928)年11月

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卍空の『善光寺如来絵詞伝』をもとにしながら、本多善光の出生地を伊那郡麻績の里とし、如来を最初に安置したのは、座光寺(元善光寺)であり、41年後に現在の善光寺に移ったとする。本多賢道は元善光寺第三十七世。座光寺村如来絵詞刊行会が発行した。