9月11日、文理学部同窓会の同窓生約40名があがたの森文化会館に集まり、最後の総会を開催しました。大学史資料センターも参加させていただきましたので、その様子をお知らせします。 1972(昭和47)年に再発足して以来、53年続いてきた同窓会は、この会をもって会報発行、総会の開催を終了しました。可知会長が会の歴史を振り返り、当時の場所を示しながら建物や植栽などの話をしている姿が印象的でした。 信州大学文理学部は、前身校の松本高等学校の校舎を受け継き学び舎としました。昭和40年代の終わり、校舎解体の危機が訪れたときには同窓生たちは立ち上がり存続に尽力しました。その努力と熱意によって遺された本館と講堂は、現在、旧制高等学校記念館として引き継がれています。2007(平成19)年には国の重要文化財に指定されました。 この度、大学史資料センターは創刊号から最終号までの会報(全55冊)の寄贈と依頼を受け、すべてをアーカイブ(PDF化)しました。それをもとに同窓会が「信州大学文理学部同窓会報 バックナンバー」(DVD)を制作し、最終総会の記念品としました。来春には、このDVDのデータをもとに同窓生有志たちが再編集した記念誌が発行される予定です。 講堂(北側入口) 受付に訪れた参加者 総会の様子 「感謝状」を紹介
寄贈資料一覧
No.42「知止不殆」 竹内松次郎 書
2025.09.09
[ 寄贈資料 ]
「ちしふたい」 たけのうちまつじろう しょ 卒業生資料(松本医学専門学校)作者:竹内松次郎 資料の年代:不明 品質形状:色紙、270mm x 250mm 松本医学専門学校初代校長、松本医科大学学長(いずれも医学部の前身校)および信州大学創立準備責任者を務めた竹内松次郎の書です。 「知止不殆」とは、『老子』第四十四章「知足不辱、知止不殆、可以長久。」(足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず、以って長久なるべし。)にある言葉で、「ほどほどを心得ていれば自らを危険にさらすことは無い。」という意味です。ほどよい所で、満足をすることの大切さを言った言葉です。 竹内は、信州大学創立準備責任者として、国、県、市町村、前身校などとの調整を精力的に行い、総合大学である「信州大学」の設置を主導した人物です。このような功績からも、信州大学初代学長になり得た人物でしたが、学長の座に就くことはなく医学部長を務めた後、1949(昭和24)年8月、松本を離れ福井大学学長となりました。この書についての制作年は不明ですが、このころの心情をあらわしたものなのかもしれません。 左下の「十松(じゅうまつ)」は竹内の雅号で、竹内の資料には多くみられます。 <関連リンク> 企画展「信州大学誕生」(Web版)のご案内「松本キャンパスのはじまり:信州大学誕生 その2」大学史資料センター 福島正樹(信州大学機関リポ
No.41 ピッケル "ウィリッシュ"
2025.03.31
[ 寄贈資料 ]
卒業生資料 (文理学部)作者:Roman.Willisch ローマン・ウィリッシュ(2代、1913~1977) 製作地:Schweiz TÄSCH/Zermatt スイス ツェルマット近郊のタッシュ資料の年代:1960年頃 品質形状:300×850×20[mm] ピッケル 、 ヘッド及び石突き:鉄製 シャフト:木製 ベルト:皮革製 寄贈者は、在学中の1966年に信州大学探検部を創設し、八重山諸島から北海道、富士山麓の青木ヶ原樹海など日本各地を探検し、鉱物や動植物などを調査しました。探検地は国内だけにとどまらず、1970年には学術調査のために部員4人でパプア・ニューギニアへ赴いています。山を登る人たちによく知られているこのスイスメーカーのピッケルは、学生たちの未知の探検にも活躍したのでしょう。 (参考) 寄贈者:関根倫雄(せきね みちお)1946-1992 略歴 1966年 信州大学探検部創設 1970年 文理学部地質学科卒業、理学部地質学専攻研究生 1970年 パプア・ニューギニアの学術調査 1992年 ネパールへの航空機事故にて亡くなる(46歳)
No.40 信州大学医学部 山岳部診療所 活動報告書
2024.07.09
[ 寄贈資料 ]
しんしゅうだいがくいがくぶ さんがくぶしんりょうじょ かつどうほうこくしょ卒業生資料 (医学部)信州大学医学部山岳部資料の年代:1986(昭和61)、1993(平成5)、 1999(平成11)、2000(平成12)、 2010(平成22)年度 常念診療所は1986(昭和61)年に医学部によって開設され、北アルプス常念小屋の冬季小屋を利用し、毎年7月中旬から8月中旬までの約1か月間開所しています。医学部山岳部の学生が運営主体となって行うユニークな夏期山岳診療所です。ボランティアの医師・看護師の人事、医薬品・生活用品の調達・管理、広報、開所・閉所作業、診療案内・補助等をすべて学生が担っています。 報告書には、診療活動従事者の内訳や日程表、症例や動向などがまとめられています。昭和61年度報告書内の「山岳診療所事始め」では、医学部山岳部顧問であった寺脇良郎氏が、開所の経緯について、学生たちの熱意に動かされたことや、常念小屋経営者の山田恒男氏からの施設提供の申し出があったことなどを書いています。 <関連リンク> ・信州大学医学部山岳部 常念診療所 ・信州大学医学部山岳部