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書物で繙く登山の歴史3 -日本近代登山の始まり- (1)

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1.新たな時代の始まりと登山

明治1(1868)年の神仏分離令、5(1872)年の修験道禁止令により、富士山、出羽三山、御嶽山など、多くの霊峰が信仰の基盤を失っていきました。
一方で、新時代の到来とともに、新たな人々が山へ分け入るようになります。地質学、地理学、植物学、動物学、気象学などの研究者や技師たちです。彼らの多くは、政府が招聘した欧米の科学者や教え子たちであり、その姿はヨーロッパにおける近代登山の始まりを担った学者たちとも重なります。
日本の山々は、「信仰」から「科学」の対象へと大きな転換を迎えることになりました。

『日本高山植物図譜』

『日本高山植物図譜』

三好學 牧野富太郎 共選 明治40-41(1907-08)年

「日本植物学の父」牧野富太郎(1862-1957)と「天然記念物の祖」三好學(1862-1939)の共選。
牧野は本書以前にも『日本植物志図篇』(1888-1891)、『大日本植物志』(1900-1911)などの図鑑を手がけている。
三好は美濃国岩村(現恵那市)の出身で、東京帝国大学理科大学教授。植物生理学、生態学の権威として日本の植物学の基礎を築き、環境保護活動にも尽力した。

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図の頁と解説の頁から成る『日本高山植物図譜』
コマクサの図ページ コマクサの解説ページ

写真は、コマクサの図と解説が掲載されている頁。

信州における植物学の成果

長野県内の高山植物標本
館内展示9点の植物標本

松本女子師範学校の初代校長、矢澤米三郎らにより、明治から大正期に収集された長野県内の高山植物標本。信州大学自然科学館所蔵。
矢澤は、信州における博物学の先駆けとして乗鞍、白馬、八ヶ岳等の植物・動物の高山学術研究に着手し、明治35(1902)年に信濃博物学会を設立、大正8(1919)年には信濃山岳会の初代会長に就任しました。
信州大学自然科学館の植物標本庫には、信州大学の前身校である長野県松本女子師範学校や旧制松本高等学校の標本が多数引き継がれています。信州大学植物標本庫(SHIN)は、様々な来歴の植物標本約40万点を収蔵し、その一部はSHINのコードを付して国際登録されています。

『富士案内』

『富士案内』

野中至著 明治34(1901)年

富士山の気象観測を目指した野中至(1867-1955)が、明治28(1895)年10月1日より12月22日まで、妻千代子と共に山頂に滞在し、観測を行った時の模様を記す。日本アルピニズムの先駆けともいうべき野中の業績は、『富士山頂』(橋本英吉)、『芙蓉の人』(新田次郎)などの名著を生んだ。本書には中村不折の挿絵が付されている。

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5万分の1地図(上高地)

5万分の1地図(上高地)

内務省地理調査所 大正1(1912)年測図 昭和5(1930)年修正測図

日本の測地・測量事業は、明治2(1869)年より始まり、多くの技師たちが三角測量を行うために高山へと向かった。5万分の1地図は、明治23(1890)年に国の基本図とされ、大正13(1924)年に全国整備される。大正2(1913)年から、北アルプスを中心とする山岳地域の5万分の1地図が市販されると、正確な地図の普及は、登山流行の後押しとなった。

小谷コレクションの5万分の1地図

小谷コレクションは、国内外の古書店などから購入した書籍で構成されていますが、展示写真の5万分の1地図(全160点余)は、小谷氏が自身の登山用に所有していたものです。
使い勝手を良くするため、地図の欄外に記されていた地名や情報が切り取られ、折りたたんだ地図の表に貼りつけられています。
地図の中には、登山行程やメモなどの書き込みが記録されているものもあります。

たくさんの5万分の1地図 登山行程の書き込み 裏面の書き込み