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書物で繙く登山の歴史2 -日本における江戸以前の山岳信仰- (1)

展示風景

1.富士山登山の歴史と展開

『竹取物語』や『伊勢物語』にも登場し、古来から日本人に親しまれてきた富士山ですが、実際に登山を試みたのは、信仰心に駆り立てられた僧侶、行者(ぎょうじゃ)と呼ばれる修行者たちでした。 1149年、末代上人(まつだいしょうにん)によって、富士山頂に大日寺が建立され、鳥羽上皇や貴族たちが書写した経典が奉納されました(『本朝世紀』)。末代上人以降、富士山は、修験道の行者たちの道場として発展していきます。
江戸時代になると、長谷川角行(はせがわかくぎょう)を祖とする富士講(ふじこう)が登場します。信者たちは講(こう)を組織して団体で富士山に参拝しました。江戸時代中期以降、江戸を中心に富士講は大流行し、富士山は民衆宗教の一大拠点となりました。

『竹取物語』

kotani2_01taketori1.png作者未詳 江戸時代後期 《小谷コレクション》

帝が、かぐや姫の手紙と不死の薬を富士山の頂上で焼かせたというエピソードは、中世になると、かぐや姫は富士山麓で生まれ、富士山の神(富士浅間大菩薩)となったという、新たな縁起を生み出すことになる。 江戸時代にはかぐや姫に替わって木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とすることが増えていく。

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kotani2_02taketori2.png「かの奏る不死の薬に、また壷具して、御使い賜はす。勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂に持てつくべき由、仰せ給ふ。御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。その由承りて、兵どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「富士の山」とは名付けける。その煙、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言ひ伝えたる。」

『本朝世紀』

kotani2_01honcho1.png藤原通憲編 久安5(1145)年4月16日条 吉川弘文館 1898年 《信州大学中央図書館旧制松高資料》

平安時代後期に編纂された歴史書。富士山に数百度登った修行僧、末代上人が山頂に大日寺を建立したこと、一切経を奉納するために、鳥羽上皇に『大般若経』の書写を懇願したことが記されている。

『富士縁起(仮称)』

kotani2_01fujiengi1.jpg鎌倉時代 《神奈川県立金沢文庫蔵》

断簡であるが、駿河国乗馬里に生まれたかぐや姫が富士山に登り、追ってきた帝とともに神と現れたこと、末代上人のことなどが記されている。書写者である全海は、鎌倉~南北朝時代、極楽寺(鎌倉市、真言律宗)に住した。

(出典:『富士山縁起の世界-赫(かぐ)夜(や)姫(ひめ)・愛(あし)鷹(たか)・犬飼(いぬかい)-』 富士市立博物館 2010年)

村山修験、富士講

村山修験は、末代上人(1103-?)を祖とする修験道です。富士山の南麓、表口登山道の村山(現静岡県富士宮市)を中心に活動したため、「村山修験」と呼ばれました。興法寺(現村山浅間神社)を拠点とし、室町時代には京都聖護院本山派(天台宗)に属し、戦国時代には今川氏の帰依を受けるなど、勢力を拡大しました。ただし、富士山登頂は行者たちの修行であり、信者たちにとっては一般的なものではなかったと言われます。
富士講は、長谷川角行(1541-1646)を祖とする民衆宗教です。角行は西麓の人穴(ひとあな、じんけつ)、北麓の吉田(現山梨県富士吉田市)で修行し、富士講の基礎を整えます。やがて食行身禄(じきぎょうみろく、1671-1733)の登場によって、富士講の勢力は拡大します。信者たちは先達(指導者)、講元(主催者)、世話人(運営者)を中心に講を組織し、富士山登頂を目指しました。講の数は飛躍的に増え、江戸時代後期には、吉田、須走、須山の各登山道は富士講の信者であふれかえったと言われます。

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富士山登山口図

図左下にある「村山口」が「村山修験」の修験道の入口。「富士講」は図右上にある「吉田口」から始まり、次第に「須走口」や「須山口」に広がっていった。

(出典:松井圭介、卯田卓矢「近世期における富士山信仰とツーリズム」(『地學雑誌』124(6),895-915,2015)
URL:https://doi.org/10.5026/jgeography.124.895

『富士山略縁起』

kotani2_01ryakuengi1.jpg作者不詳 江戸時代中期 《小谷コレクション》

富士山が日本の地に誕生した経緯、山名の由来、かぐや姫の伝説、富士を訪れた聖徳太子の話、役行者の話などが記される。密教の教義によって富士山のありさまを説くなど、村山修験に伝来する縁起である。富士山表口五合目室の持ち主であった、佐野太郎兵衛によって出版された。

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『富士山の本地』

kotani2_01honchi1.png作者不詳 昭和 5(1930)年 《小谷コレクション》

富士山に関する中世までの記録・説話を集めた内容で、養蚕起源説である金色姫伝承、富士山におけるかぐや姫の説話、富士権現の霊験譚などを載せる。江戸時代に刊行された版本の下巻を書写したもので、文・絵とも丁寧に写されている。
『富士山の本地』の伝本は少なく、その中でも彩色の写本は極めて珍しい。

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『不二行者食行録』

kotani2_01jikigyouroku1.png田辺豊矩作 大正時代 《小谷コレクション》

食行身禄が、富士山の烏帽子岩で断食をし、一ヶ月余で入定(絶命)するまでに語った教義を記す。享保18年(1733)に弟子の鏡月(田辺豊矩)が筆録した。『三十一日の御巻』とも呼ばれる。富士講中興の祖、身禄の書として尊ばれ、信者たちに多大な影響を与えた。

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『富士山人穴双紙』

kotani2_01hitoanasoushi1.jpg赤池氏編 天保 3(1832)年 《小谷コレクション》

仁田四郎忠綱が富士山の人穴に入り、地獄・極楽めぐりをする物語。長谷川角行の修行以前、鎌倉時代から人口に膾炙した。本書は、天保三年、食行身禄の百回忌にあたり、富士の人穴(現富士宮市)で出版・頒布された。小谷コレクションには、他に2種類の『富士人穴草子』が所蔵される。

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小谷コレクションが所蔵している他の『富士人穴草子』
    • 『富士人穴物語』 作者不詳 江戸後期

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    • 『富士人穴探験古記』 作者不詳 文化3(1806)年

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富士塚 『名所江戸百景』「目黒富士(新富士)」

富士講では、江戸や関東各地に富士山を模した富士塚を築き、遙拝や模擬登山、近隣の富士塚めぐりなどを行った。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『富士見十三州輿地之全図』

kotani2_01zenzu1.jpg船越守愚(清蔵)編 秋山永年画 天保14(1843) 《小谷コレクション》

富士山を望める十三州を描き、色刷りで出版した地図。版元は衆星堂。大きさは畳2畳分にも及ぶ。編者の船越守愚(清蔵)(1805-1862)は、長州清末藩士で陽明学者。蘭学や医学にも造詣が深く、吉田松陰とも親交があった。後に萩明倫館の教官となった。

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『富士山図』

kotani2_01fujisanzu1.jpg作者不詳 江戸時代後期 《小谷コレクション》

富士山の立体地図。美しい円錐形を特徴とする富士山の姿を、立体の形で表現している。多数の古地図を持つ本コレクションの中でも、極めて珍しい一品である。地図上には、全ての登山口から山頂までの道程が描かれ、江戸時代に隆盛した富士詣での実態を知る上でも興味深い資料である。

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