ブータン チュッカ県の農村の皆さんと

  
 私が所属する信州大学農学部の植物遺伝育種学研究室(旧作物育種学研究室)では、故氏原暉夫先生と、後に私の指導教員になる南峰夫先生が1980年代からヒマラヤ山麓のネパール等の山岳地域で植物遺伝資源探索を実施してきた。1990年代初めには、私もその研究室に入ることになるのだが、その頃には遺伝資源探索やネパールの農業研究では、ちょっと世に知られた研究室であったようだ。在学中はそんなことはあまり強くは感じなかったのだが、私が農林水産省の農林水産技術会議事務局(農林水産省の研究を統括する部門)に就職した際、上司(当時、試験研究機関から出向していた著名なイネ研究者)が課内の皆さんに、「この新人さんは氏原学校の卒業生だから遺伝資源探索や海外調査には強いはずだよ」と紹介してくれたことで、自分が凄い研究室を卒業したのだと実感した。

ネパール極西部 ダデルドューラの農村

 その後、私が教員として同研究室に戻ってきた2000年代以降は、前出の南峰夫先生、同僚の根本和洋先生や学生達と共に、ブータンでの食用野生植物資源調査(2005~2010年)、タイでの食用野生植物資源調査(2005年)、ネパールでの植物遺伝資源探索(2016~2018)、カンボジアでの植物遺伝資源探索(2014~2019年)、さらにはミャンマーの山岳地域での植物遺伝資源探索(2019年)と、我が研究室のお家芸たる遺伝資源探索や現地調査を引き続き実施してきた。その間もやはり、その興味の対象は山岳地域、特に低緯度高標高地域であった。

ネパール中央部ラスワ郡ガトルンでの遺伝資源探索アマランサス

ネパール東部での遺伝資源探索風景 聞き取り調査

ネパールの首都カトマンズのアサンチョーク市場でのでのトウガラシ遺伝資源調査風景

 何故、我々が低緯度高標高地域の農産物や植物に興味を持つのかというと、それは、その地域の生物多様性の大きさが理由である。低緯度だと、標高の低いところでは熱帯か亜熱帯性気候であるが、標高が上がるに従ってその気候は変化して行き、温帯性の気候を経て、さらに高い標高では森林限界を超えて万年雪が積もるようにもなっていく。特に急峻なヒマラヤ山麓では、少しの水平移動で大幅な垂直異動をすることになり、それに伴う気候の変化も大きい。気候の変化が大きいということはそこで生息する植物種も標高によって変わってくるし、農業体系や作付けされる作物や、その品種も変わってくる。ということは、狭い地域内で熱帯性作物から温帯作物、さらには寒冷な地域に適した作物まで一挙に存在するということになり、植物遺伝資源探索を実施するには都合が良いのだ。さらに、ヒマラヤ地域は、大まかにいうと西の方は乾燥気味、東の方は湿潤気味の気候なので、先の標高差(=南北差)と相まって、東西南北でだいぶんその風景が違ってくるのも遺伝資源探索者としては魅力だ。
  もう一つ、このような地域の多様性を増している理由がある。それは、様々な民族が居住していることである。例えば、ネパールには100以上の様々な民族が居住しているといわれ、北からのチベット系の文化であったり、南からのヒンディー的な文化であったり、東からの照葉樹林文化として知られる様なアジア山岳地域的な文化が流入し、混在する地域である。そのため、食文化、農耕文化も複雑に入り交じっており、我々がターゲットとする農作物の多様性や野生植物の食用利用の多様性も大きいのだ。
  

ブータン東部ルンツェ県の県庁兼寺院兼城郭(ゾン)

ブータン北部ガサ県の山岳風景

ブータン西部 ウォンデユュポダン県での調査

ブータン東部 タシガン県ビカールゴンパ村の皆さんと

ネパールのトウガラシ(ジレクルサニのうちfrutescensタイプ)

 さて、この様な多様性が期待できるヒマラヤ山岳地域であるが、ネパールでの植物遺伝資源探索の中で興味深いトウガラシを見つけたので紹介しておきたい。ダレ・クルサニもしくはアクバレ・クルサニと呼ばれるトウガラシがある。前者のダレは「丸い」という意味、後者の「アクバレ」はムガール帝国のアクバル大帝のこと、クルサニは「トウガラシ」を意味し、その名の通りプチトマトの様な丸い果実をつけ、その辛味は皇帝並の強さなのである。このトウガラシの興味深いのは、一般的なトウガラシ栽培種C.annuumと、ハバネロなど激辛品種が属するC.chinenseという栽培種の両方の特性を持っていることであり、我々の遺伝子解析の結果からも雑種由来の種ではないかと推察されている。また、同じくネパールのジレ・クルサニ(ジレ:小さくても強い人の意)の中には、一般的なトウガラシ栽培種C.annuumの白い花の個体と、近縁栽培種キダチトウガラシ(C.frutescens)の薄緑の花の個体が混在して一つの品種として栽培されている系統がある。C.annuumC.chinense間、C.annuumCfrutescens間での交雑は、可能であることは可能ではあるが、人工交配をしても後代に続く雑種作出は難しく、自然状態ではまず起こらないはずだ。こんな謎のトウガラシ種は他国、地域では見たことがない。ヒマラヤという地域には、この様な普通ではあり得ない雑種を作り出し、前述の様な2つの理由以外にも多様性を生み出す何かがあるような気がしてならない。



 

ネパール東部コシ県ダンクタ郡ヒレの八百屋のダレクルサニ

ネパール東部、イラムの商店で売られていたダレクルサニの漬物

ネパール東部でトウガラシ遺伝資源調査風景

信州大学の試験圃場で栽培試験中のネパールのトウガラシ(ダレクルサニ)

 なお、これらネパールやブータンといったヒマラヤ山岳地域のトウガラシをはじめ、世界のトウガラシを網羅して紹介する拙著「とうがらしの世界」が講談社メチエ選書から発売中です。ご興味のある方は是非。