教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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書籍紹介 師茂樹著『論理と歴史』

『論理と歴史 東アジア仏教論理学の形成と展開』(ナカニシヤ出版 2015)

今年度から科研の協同研究を行う師茂樹氏が因明学の新時代を開く素晴らしい論考を公刊されました。 因明学については武邑尚邦『因明学 起源と変遷』が古典的名著ですが、その出版は1986年。この間、約30年の間、インド・チベットの仏教認識論・論理学の研究は充実してきたものの、東アジア世界に伝播した、もう一つの仏教認識論・論理学の伝統(因明学)の研究は「漢文で残された東アジアの因明が不完全なもの」と誤解され、敬遠される傾向にありました。その中、師氏は唯識比量に関する膨大な文献を精査しながら、着実な成果を積み重ねてこられました。

本書の構成

第1章 序論 1. 対象と方法 2. 周縁としての因明 3. 本書の構成 第2章 唯識比量の成立と新羅における批判 1. 問題の所在 2. 玄奘伝における唯識比量の問題 3. 基『因明入正理論疏』の唯識比量解釈 4. 新羅における唯識比量批判 5. 小結 第3章 論理式の解釈と仏教史の構想――バーヴィヴェーカの論理式をめぐって 1. 問題の所在 2. バーヴィヴェーカの伝承の変遷 3. 掌珍比量の東アジアにおける受容 4. 日本古代における掌珍比量研究 5. 東アジアにおける『大仏頂経』研究と掌珍比量 6. 小結 第4章 繰り返される三転法輪――東アジアにおける三時教判の展開 1. 問題の所在 2. 基以前の三転法輪説解釈 3. 唐・新羅における三時教判の展開 4. 日本古代における三時教判の展開 5. 徳一の三時教判に基づく法華経解釈 6. 小結 第5章 空有の論争と仏性論争との接続 1. 問題の所在 2. 空有論争と大安寺 3. 相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 4. 『日本霊異記』下巻第38縁に見られる仏性論争 5. 小結

因明研究の価値

さて、「因明」というといかにも非実用的なものと思われるかもしれませんが、本書の序論でその印象は覆されることでしょう。そこでは、明治時代に西洋から哲学・論理学を輸入する際、因明の伝統がその橋渡しをしたこと、中でも、雲英晃耀(きらこうよう、1831-1910、浄土真宗大谷派)は裁判や交渉などで因明のテクニックが使えることを喝破し、欧米列強との不平等条約を批判する推論式を作成したこと(pp. 24-25)などがまとめられています。 また、日本の近代仏教の中で因明学がどのように受容されたのか、そしてそれは中国における因明研究の歴史と対照的であることなども、本書の第1章から学ぶことができます。 個人的には、仏教論理学そのものの〈非歴史性〉が実際には文書を通した見る〈歴史性〉に支えられるとする〈歴史的アプリオリ〉について、フッサールの議論を参照しながら展開される一節に非常に興味をそそられました。ブッダの覚ったものが真理だとすれば、その真理だけがあればよいはずで、にもかかわらずなぜ仏説とその伝承を仏教徒たちは執拗に求めるのか、という問題なのかもしれません。著者である師氏は仏教的な〈歴史性〉そのものを三転法輪とその反復として捉えようとしています。こうして、〈論理〉にせよ、〈歴史〉にせよ、徹底的に東アジア仏教的なコンテクストから再考されていく主軸は、ぶれることなく、本書を一貫しています。

特に唯識比量について

本書では、様々な先行研究が引用されますが、中でもよく引用される研究としてEli Franco “Xuanzang’s proof of idealism” (Horin 11, 2004)があります。 フランコ先生がこの論文を執筆するとき、漢訳はどうなっているのか、関連するものを英訳しておいてほしいと言われ、はじめて基の『因明入正理論疏』を部分的に読むことになりました。この論文は師氏だけでなく、多くの因明研究者の目にとまったようで、今にして、あの英訳でよかったのか、もっと先生に伝えるべきことがあったのではないか、と反省しています。本書を読む限り、「真故」という限定詞のことをフランコ先生が重視しなかった点を除けば、師氏の解釈と大きく異なるところは少ないようなので、ほっと胸をなでおろしています。 参考までに、問題の推論式をあげておきましょう。 真故極成色不離於眼識 自許初三摂眼所不摂故 猶如眼識 師2015, p. 4: 真理においては(真故)、立論者・対論者のあいだで承認された(極成)色や形(色)は、眼の認識作用(眼識)を離れて存在しない。 なぜなら、私が承認しているところによれば(自許)、(立論者・対論者のあらいで承認された色や形は十八界の)最初の三つ(=眼の器官(眼根)・色や形(色)・眼の認識作用(眼識))には摂められるが、眼には摂められないからである。 たとえば眼の認識作用(眼識)のように。 Franco 2004: From the point of veiw of absolute reality, color and form, which are well known among the people, are not separate from the visual consciousness. Because while being included in the first three (dhātus) that (we do too) accept, they are not included in the sense of vision. Like the visual consciousness. 一見すると不思議な推論式ですが、 極論すれば甲、乙、丙の三つしかない世界があるとして、「甲は乙である。なぜならば丙ではないから。乙のように」という形になります。今、視覚に関連する世界では、甲=色・形(対象)、乙=視覚、丙=視覚器官となり、上記の推論から色・形が視覚という認識作用にまとめられ、唯識であることが証明される、という段取りです。 騙されている感じがするのは分かりますが、実は、ディグナーガ流の論理学では、この推論式の中核部分に瑕疵はありません。そこで問題になるのが、推論式に登場する「真故」・「自許」・「極成」などの修飾語です。これらが一体、どのような役割を担っているのか、それこそが玄奘の弟子たちが議論し、意見の相違を生むことになった原因になるものです。本書の第2章はこれらを詳細に分析し、さらに新羅の学僧たちが玄奘に対する疑義を提示したポイントがどこにあったのかを明らかにしてくれています。 仏教論理学に不慣れな読者には少し難しい内容も含まれるでしょうが、日本の一般読書会にも因明学のことが伝われば、過去の日本の伝統を見直し、東アジア世界とのつながりを再考するきっかけになると思います。勿論、仏教論理学の専門家には必読の本であることは言うまでもありません。 ※なお一点だけ気になったのは、「相違決定」の訳語です。「矛盾の確定」という訳語があてられていますが、対立する二つの理由が相互に確定的に論証対象を結論づける、二律背反が分かるような訳語がよいでしょう。

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