教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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ワークショップ「仏教認識論と比較思想の可能性」

 3月6日、筑波大学にてワークショップ「仏教認識論と比較思想の可能性」が開催されました。恩師である吉水千鶴子先生のご招待により、私と三谷尚澄先生の二人で初めてのコラボを上演、じゃなかった講演してまいりました。  吉水先生が起草された本企画の趣旨は、比較思想とは何か、を問う上で本質的な点を指摘されていますので、以下、掲載したいと思います。

企画の趣旨

 異なった民族、異なった言語、異なった歴史・文化の土壌から生まれたさまざまな哲学、倫理、宗教などを比較検証する学問が「比較思想」であれば、それはそれぞれの異なった土壌に由来する固有性と、人類に共通する世界観や思考方法に由来する普遍性を区別しながら比較する、という方法をとるものであると思います。  しかし、異なった言語間でほんとうに同じ意味をもつ概念や思想を見出すことはそれほど容易ではありません。言葉はそれを育んできた社会と文化、そして個々の人間の感情や経験と切り離して用いられるものではないからです。たとえば「神」という語を発したとき、そこに込められた意味は千差万別でしょう。でも一方で、ひとつひとつのコンテクストを考慮してもなお、それを越えて私たちが共通知を持ちうることもあるのだと思います。  科学はそのひとつの手段です。物質を表す記号や名称が誰にとっても同一のものを指すという約束のもとに科学は世界の共通知として成立します。「酸素」(oxygen)は日本語で言っても英語で言っても、同じ物質を指します。鉱物や植物、動物も自然科学では万国共通の学名をもっています。翻って、文学は、しばしば翻訳不可能といわれるその言語特有の響きや意味を表現し、ほんとうにそれを味わうためにはその言語と文化を学ばねばならないものです。では「哲学」は?  哲学は自然科学と文学の中間的な位置にあるのかもしれません。思想は言語や文化の相違を越えて正しく伝えられるべきもの、理解されるべきもの、そしてそれが可能なものだと考えられています。だからこそ「比較思想」も成り立つのですが、上記の困難があることに変わりはありません。  「存在」「認識」「精神」「信仰」「道徳」などの抽象概念は普遍的なものだと錯覚しがちですが、ひとつの言語の中でもそれらは実は多義的なのです。そのような概念を、コンテクストからひっぺがして比べてみることにどのような意義があるのでしょうか?ただ薄っぺらい表層の類似が発見されるだけではないでしょうか?そのコンテクストとなる文化的土壌ををまるごと抱え込んで、比較思想はできないものでしょうか? 単なる言葉や概念の比較から出発せず、私たちに共通の経験や認識のあり方から出発してはどうでしょうか?  そんなことを考えてみる時間になればよいと思っております。

プログラム

「仏教認識論における所与(given)」(護山真也) 「「所与」概念をめぐるカント/セラーズ派の分析」(三谷尚澄)  企画の趣旨にどれだけ答えることのできるものであったか、は心もとない限りですが、知覚表象の概念性/非概念性、そして基礎づけ主義等をキーワードとして、ダルマキールティとセラーズの不思議な邂逅を論じることになりました。哲学・思想専攻の先生方、大学院生、学生の皆さんからも様々なご意見をいただき、あっという間に三時間が過ぎました(私の発表が時間超過してしまい、全体討議の時間を削ってしまったことが悔やまれますが…)。

 比較思想というと、どうしても胡散臭いイメージで語られることが多いわけですが、今回の「所与」というテーマは、二つの哲学的伝統の間でそれなりに実りある対話が成立しうる好例だったと思います。それぞれの学問研究の細分化と専門性がますます高まったいる今、片方ではそれぞれの壁の向こう側へと通じる風穴を開けておくことも必要でしょう。そのことがもたらす帰結についてはなお不透明なところが残るにせよ、この種の対話の重要性は、ダライ・ラマ14世が教えるところもであります。  またいつの日にか、第二ラウンドが開催されることを心待ちにしつつ、以上、報告まで。

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