教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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シリーズ大乗仏教 第2巻 第3巻

目次の紹介

 春秋社から『シリーズ大乗仏教』の続巻が出ています。再び、斎藤明先生よりご恵贈いただきました。 第二巻 大乗仏教の誕生 大乗仏教の成立(斎藤明) 経典を創出する(下田正弘) 大乗仏典における法滅と授記の役割(渡辺章悟) 変容するブッダ(平岡聡) 上座部仏教と大乗仏教(馬場紀寿) アビダルマ仏教と大乗仏教(本庄良文) ヒンドゥー教と大乗仏教(赤松明彦) 中世初期における仏教思想の再形成(吉水清孝) 第三巻 大乗仏教の実践 第1章 大乗仏教の実践(末木文美士) 第2章 戒律と教団(李慈郎) 第3章 信仰と儀式(袴谷憲昭) 第4章 大乗仏教の禅定実践(山部能宣) 第5章 仏塔から仏像へ(島田明) 第6章 菩薩と菩薩信仰(勝本華蓮) 第7章 大乗戒—インドから中国へ(船山徹) 第8章 中国禅思想の展開—「平常無事」と「悟」(土屋太祐)

大乗仏教の新たな姿

 第二巻・第三巻と続けて読んでいくと、「大乗仏教が分からなくなる」という点で、素晴らしい論考の数々です。「大乗仏教」と聞けば、「小乗仏教(部派仏教)」に対置されて、いかにも確かな概念規定がなされているように思われています。知識のある人ならば、「大乗仏教って所詮は、お釈迦さまの直説じゃないんだから、でっち上げの教えなんだよね」と大乗非仏説を語るかもしれません。あるいは、「大乗仏教は在家者集団から生まれてきたものでしょ」と平川彰先生の仮説を定説にしている人も多いでしょう。これらに共通するのは、「大乗仏教」なるものは自明である、という暗黙の前提です。  が、研究の最前線に立つ人たちは、まさにその前提に挑戦しています。第三巻の「はしがき」において、末木文美士氏は次のように述べています。 「複数の論文から、大乗が必ずしも部派の仏教とはっきりと断絶しているわけではなく、両者の間には共通性があり、連続的に見るべきことが、さまざまの点から明らかになった。このことは、今度は大小乗を断絶的、二項対立的に捉える見方がどこから生まれ、どのように定着したかという、新たな問題を生むことになる。」  大乗仏教と部派仏教(小乗仏教)とがどのような関係にあるのか。一世を風靡した平川仮説では、大乗仏教の成立が部派仏教の伝統とは別のところに求められてきました。しかし、第二巻・第三巻に収録されている多くの論文が、その仮説に修正を迫り、部派仏教と大乗仏教との連続面をクローズアップしています。  このあたりの事情が、もっとも明確にまとめられているのは、第三巻の李慈郎さんの論考です。専門家以外の人ならば、まずは、第三巻の末木氏の章と李さんの章を読んだ上で、第二巻・第三巻の各章を読んでいくと、相互の連関が分かりやすいのではないでしょうか。あくまで個人的な意見ですが…。

残された謎?

 さらに個人的な感想を連ねるならば、大乗仏教と部派仏教との連続面が強調されるあまり、「では、なぜ、部派仏教と連続性をもっている大乗仏教、特にその拠り所となる大乗経典は、紀元前後のある時期に――北インドにクシャーナ王朝、南インドにサータヴァーハナ王朝が隆盛する時期に――出現したのか」という謎が置き去りにされているようにも思います。  斎藤明氏は、 「北西および北インドとで事情がやや異なるとはいえ、大乗仏教の登場には共通した時代的な背景もうかがえる。東西の交易や異文化交流に前向きな南北の王朝の庇護を受けたこと。バラモン教の復興、王権の伸長とイーシュヴァラ(自在神)信仰の広がり、土着の諸信仰を前面に立て、シヴァとヴィシュヌの二大神が大きな役割をはたすことになるヒンドゥー教の成立、「天啓経」や「律法経」等の祭事経や文法学などのヴェーダ補助学の整備、古典サーンキヤ説やヴァイシェーシカ説の登場、等々である。大乗仏教は、一面において、以上のような背景のもとに成立した教理上の復興運動であった。」(第二巻、p. 5) と歴史的・文化的な背景をまとめています。しかし、一体、これらの要素のうち、どれがどのように大乗経典の成立に関わっていったのでしょうか。  大乗仏教が部派仏教と連続面をもち、部派仏教の中に大乗経典を信奉する人々が共存していたとしても、そもそもその大乗経典がなぜ特定のある時期に、ある場所で誕生したのか、の謎が解明されなければならないように思います。  もしかしたら、その謎を解く鍵は、斎藤氏が述べた「異文化交流」という一語にあったのかもしれません。クシャーナ王朝下で、非インド的な宗教文化との邂逅がおこり、そのハイブリッドとして大乗経典の書写がはじまった、なんてことはないんでしょうか。仏像の創始に関して、最新の研究を紹介した島田明氏が、それらの研究の「妥当性は未だ十分に検討されているとは言い難い」という留保をつけた上で、「あるいは仏陀像創始の直接的な原因は、教義とは関係のない、支配民族の文化伝統に求めるべきものなのかもしれない」(第三巻、p. 139)と記したことが、大乗経典の成立にもあてはまるとしたらどうでしょう。そのとき、「〈大乗〉仏教」という幻想が砕かれたのと同じように、「〈インド〉仏教」という幻想もまた砕かれるのかもしれません。  なにはともあれ、大乗仏教の成立と展開に興味をもつ人々にとって、この二つの巻は必読です。  また、授業で「アポーハ論」やら、「ハルプファスが言うには、パタンジャリが…」やら、呪文のような言葉に悩まされている人には、第二巻所収の吉水氏の論文をお薦めします。「競争的資金」の獲得にあくせくしている先生たちの姿と、古代インドの哲学者たちの姿が重なって見えるはずですから。

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