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はやさか としひろ

早坂 俊廣

哲学・芸術論 教授

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中国関係

安徽調査報告(4)余計な所

戴震紀念館

12月も間近に迫ってきましたが、いまだに9月の調査報告です(今回でお終いにします)。以前このブログのどこかに書いたと思うのですが、中国で現地の方に案内を頼むと、必ずどこか「余計」な所に連れて行かれます。「余計」というのは「当初の計画/こちらの希望には無い」という意味ですが、結構そういう場所のほうが後々印象に残ったりします。そういう意味では、有り難いことです。よくよく考えれば、もし仮に「川島芳子の墓が見たい」と中国の知り合いが松本を訪れたならば、その人が何と言おうと、「いやいや、せっかく松本に来たんだから、松本城や開智学校も見ようよ」と私だって言うでしょうしね。

戴震小学正門

今回の調査で言いますと、まず屯渓老街の「戴震紀念館」です。戴震(1723~77)は清代を代表する思想家、「清朝考証学」と言えば最初に名前があがるような大学者で、ここ徽州(安徽休寧)の出身です。思想史研究者の端くれですからもちろん興味はありますが、私はここではなく、「戴震故居」をリクエストしていました。「戴震故居」には、15年ほど前、黄山への団体旅行時の空いた時間に一人で抜け出て、輪タクに乗って訪れたことがありました。川沿いの非常に雰囲気のよい場所であったこと、日本の某一流大学の有名教授(戴震の研究もされていた)の揮毫が飾ってあったこと、お世辞にも達筆とは言いがたいその筆遣いに勇気づけられた(?)こと、等等がよい思い出として残っているので、他のメンバーにも見てもらいたいと思い、リクエストしたのです。「時間があまり無いんだけど」とぷりぷりしつつ、現地の人に話を聞いてみたら、一挙に「ぷりぷり」が氷解しました。前に「故居」と称されていた場所(私が以前訪れた所)は、戴震の後裔の故居ではあるものの、厳密には彼の故居とは言えないことが判明した、彼の故居があったであろう本当の場所は、今、学校になっている、戴震紀念館の館長さんが今から我々のバスに同乗してそこに連れて行ってくれる、という話でした。

戴震故居遺物

一瞬でもぷりぷりしたことを心の中で反省しつつ、その学校「戴震小学」を訪れました。今のところ残骸が保管されているだけだけれども、何とか「戴震故居」を復元したいという話でした(「放置」と言った方がよさそうな状態でしたが、やる気はあるようです)。そこらで遊んでいる小学生に「がんばって勉強するんだぞ!」と声をかけたら、逃げられました。 もう一ヶ所、予想外の所に連れて行かれました。「績渓適之中学」です。「ああ、あの人ね」と気づいた人は、相当な中国通ですね。胡適(1891~1962)という著名な学者がここ徽州(安徽績渓)の出身であることは知っていましたが(生まれは上海のようですが、一族がここに根を張っていたのです)、彼の「字(あざな)」である「適之」を冠した中学があって、そこを自分が訪れるとは予想外でした。校舎の電光パネルに「歓迎日本〈明清徽州教育団〉」と書かれていました。同行した中国人研究者により、我々は「胡適思想の心酔者」と紹介されました。「じゃあ、まあ、そういう体で」と思い、胡適を顕彰する展示室で写真を撮りまくりました。胡適は新中国成立後、アメリカに亡命し、台湾の国民政府で要職を務めた人ですから、彼の名を冠した学校があり、彼の顕彰を大々的に行っているというのは、驚きです。時代も変わったものです。

績渓適之中学正門

17年ほど前、当時の杭州大学で研修を行っていた私は、中国人の友人に頼んで、浙江省金華市の義烏という土地に連れて行ってもらったことがあります。宋元時代に多くの思想家を輩出した土地なので、思想家の墓とか書院跡とかを見て回りました。その時、その友人が「義烏に来たんだったら、ここを見なきゃ!」と「小商品市場」に連れて行ってくれました。日本で言えば「百円ショップ」に並ぶような商品の問屋さん街です。当時そこそこ中国国内では有名になりつつあった場所だったのですが、特に興味も無く「付き合い」で見て回りました。しかしその後、そこは世界的に有名になり(アフリカなどからも買い付けに来るそうです)、日本のテレビでもしばしば紹介されるようになりました。今回訪れた「戴震小学」「績渓適之中学」がそんなブレークをすることは恐らくないとは思いますが、後々まで記憶にしっかり残ることでしょう。現地の皆さん、本当にありがとうございました。

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