ヒマラヤの氷河は今


 山の環境は気候の変化に敏感に応答するため、平地よりもより早く、より大きく変化が現れます。したがって、地球環境の変化を明らかにし、将来を見通すのに相応しい場所なのです。とりわけ高山に分布する【氷】は【気温0度】を挟んで成長したり融けたりして、気温変化に応答してきました。そこで、「世界の屋根」と称されるヒマラヤを舞台に雪氷圏の変化を追っています。環境の変化は生態系を変え、人間の生活にも影響を与えると考えられています。標高6000mも越える高所での地道なフィールドワークから実態に迫ってみます。

ヒマラヤの氷河は融けているのか:フィールド観測

ネパール チョラ氷河の末端変化の様子 
         

 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第四次評価報告書に「ヒマラヤの氷河は世界で最も速く融けていて、2035年までに消滅する」と記述され、衝撃を与えました。なぜならアジアの大河川はヒマラヤ・チベットの氷河の融解水を源とするからです。氷河がなくなるとアジア13億人の水資源が枯渇すると危惧されました。
 エベレストを源とするネパール・ヒマラヤで、9つの小型の氷河の変化を1970年から精密な測量で調べています。その結果、9つの氷河では氷河の末端位置が後退し、年々縮小していることがわかりました。中にはこの間に融けて消滅してしまった氷河もあります。大きく後退した氷河も中にはありますが、過去40年で200mくらい後退しているようです。1年あたり5m程度の後退速度です。
 ではなぜ融けているのでしょうか。エベレスト近傍、といっても50kmほど離れていますが、気象観測点での気温の推移を見てみます。夏の最低気温が10年あたり0.61度上昇しています。ヒマラヤは夏が雨季です。標高が5800m程度の高所は夏でも気温が0度程度で、雨ではなく雪が降ります。この雪が氷河を作っています。しかし、ここで気温が上昇すると、雪ではなく雨が降ってしまいます。氷河を作る雪の量が減るだけでなく、雨がすでにある氷を融かしてしまいます。二重の効果で氷河は縮小してしまう、という訳です。





チョラ氷河の末端変化の測量結果

エベレスト近傍
9つの小型氷河の末端変化のまとめ

エベレスト近傍の気象観測点の気温変化

ヒマラヤの氷河は融けているのか:空中写真解析

エベレスト山域 クンブ地方の過去34年間の氷河末端位置の変化
赤い氷河が後退,緑が変化なし,青が前進。

 エベレスト近傍のネパール・ヒマラヤの氷河が融けているのは間違いなさそうです。また気温が上昇傾向にあることも間違いなさそうです。ただし、サンプルの氷河数が少なすぎます。全体像を考察する必要があります。
 現場での観測は、時に標高6000mにも達し、1箇所の観測も容易ではありません。全体像の把握にはリモートセンシングを用います。世界の研究者はもっぱら、衛星画像の解析を行っていますが、この方法だと積雪と氷河の氷との区別が困難で、氷河の面積を過大評価してしまいがちです。そこで空中写真を実体視判読しました。実体視すれば氷は厚みをもったボリュームのある物体として認識できますから、単なる積雪とは明確に区別が出来るのです。
 ネパール東部の1200を越える氷河について、1958年から1992年の間の変化を調べました。この結果、約6割の氷河は後退、3割の氷河は変化なし、1割の氷河は前進していました。したがって、大局的な傾向としては氷河は融けているといえるものの、縮小一辺倒ではないことには留意する必要がありそうです。

ヒマラヤの氷河は世界で最も融けているのか

スイス・アルプス モルテラッチ氷河

 ネパール・ヒマラヤの氷河は融けてはいるものの、それほど単純な現象ではないことが分かりました。それでは、これらの氷河の融解・縮小は世界で最も速いのでしょうか。ヨーロッパのアルプスの事例と較べてみます。過去100年以上にわたって、氷河の末端位置が記録されてきたスイスのモルテラッチ氷河では、最近では1年で50m近く、末端位置が後退しています。エベレスト付近の氷河とは速度が1桁違いますね。
 もう少し長い目で見てみましょう。江戸時代の末期、1840年頃は世界的に今より気温が低い時期でした。気温が低いので各地の氷河は今より拡大していました。それは、その時の氷河が残した痕跡「モレーン」で分かります。モルテラッチ氷河は長さ3km以上もその時から後退しているのです。ヒマラヤではどうでしょうか。エベレスト山域の127の氷河の変化を調べました。平均すると700m程度でした。ここでも後退のオーダーが1桁違います。
 もっと長い目で見てみましょうか。氷河期についてです。今から2万年ほど前は氷河期で世界各地に氷河が分布していました。日本アルプスにも多数の氷河がありました。当時の氷河の広がりを地図に表してみましょう。水色が氷河です。どうでしょうか。アルプスでは、現在のスイスのほぼ全域が氷河に覆われていました。ネパールでは現在の氷河末端から僅か数キロの範囲で氷河が拡大していたにすぎません。氷河期とは思えないほど、氷河の広がりは小さなものでした。
 いろいろな時間スケールでみても、とても「ヒマラヤの氷河が世界で最も融けている」とはいえそうにありません。IPCCもさすがに、ヒマラヤの氷河の記述は誤りだったと訂正を出しました。

ロブチェ氷河と下方のモレーン

  エベレスト山域での1840年以降の氷河の後退距離
  平均すると700mほどになる

ネパール・ヒマラヤにおける氷河期の氷河の広がり

スイスにおける氷河期の氷河の広がり

ヒマラヤの水資源は枯渇するのか

エベレストを源とする氷河からの融け水

 先に述べたとおり、アジアの大河川はヒマラヤ・チベットに源を発します。ネパールはガンジス川の源流です。ヒマラヤの氷河が融けてしまうと、水資源は枯渇してしまうのでしょうか。
 結論からいうと、そういうことはことヒマラヤに関しては考えがたいといえます。ヒマラヤから氷河が消滅しうるか、です。冒頭の写真をご覧下さい。エベレストです。標高は8848mあります。氷河が融けるには気温がプラスに転じる必要があります。かなり単純化した議論ですが、ある意味で世界で最も融けにくい氷河がエベレストの氷河とはいえないでしょうか。エベレストの山頂で気温がプラスに転じるとはちょっと考えられません。今から約7000年前、日本では縄文時代ですが、この時代は今よりも気温が高い時期でした。その時でも、エベレストから氷河がなくなったという痕跡はありません。
 それでも氷河が現在縮小している以上、氷河の融解水量が減る、そういう議論があります。氷河とは、降った雪が氷になり地上に一時的に溜おかれた「貯水池」の様なものです。「貯水池」から溢れた水が、融解水として流れ出すイメージです。その「貯水池」が小さくなる、あるいはなくなるのだから、水量が減る・・・ はたしてそうでしょうか。雪や雨は降り続けます。「貯水池」を経ずに川に流れていくのですから、流量は変わらないはずです。
 次にヒマラヤの気候を概観してみましょう。雨季の夏は、ベンガル湾からの季節風がヒマラヤの南斜面に吹き付け、大量の降水をもたらします。世界最多雨のチェラプンジもヒマラヤの南斜面です。世界的にも非常に降水量が多い場所です。ですから、氷河とは関係なく、もともと水の多い場所ですから、水危機が訪れるとはちょっと考えらません。
 人びとの暮らしについても、標高の高い場所は天水で農業を行っていますし、標高の低い場所は多量の降水を源に、灌漑で稲作を行っています。水理学のモデルによるとガンジス川の水量に占める氷河の融解水の割合は3%程度だそうです。エベレストを起源とするネパールの水系に占める氷河の面積もわずか5%です。ことヒマラヤに関しては、人びとの暮らしが氷河の融解水に依存している訳ではなく、氷河と水危機を結びつけるのは少し安易な気がします

エベレスト山域、最高所の畑(4300m)
じゃがいもやオオムギを栽培し,天水農業に必要な降水量がある。

ヒマラヤ低所の稲作地
豊富な降水量を背景に、河川水を灌漑で引いて稲作が行われている。

ヒマラヤのフィールドワークでわかること

 最近は少し落ち着いてきましたが、いっとき、ヒマラヤの氷河を巡る話題がメディアを賑わせました。氷河が融ける、水資源が枯れる、と。しかし実際にフィールドを歩いていると、肌感覚で様々なことを体得し、理解できます。こうした経験は、自身で考える際に大いに役立ちます。山のフィールド調査は容易ではありません。まして6000mの高所ではなおさらです。それでも、現場に出て、見て、考えることの大事さを、ヒマラヤの氷河が教えてくれます。