2025.06.18
[ 信州大学を学ぶ ]

長野県師範学校徽章
『信州大学教育学部附属長野中学校五十年史』より
製作年:1914(大正3)年4月
製作者:不明
デザイン:トガクシショウマの花の中央に師範の「師」の字を配置している。
1902(明治35)年5月23日、皇太子殿下(大正天皇)が行啓の際、講堂に陳列した師範生徒と小学校児童の成績品をご覧になりました。このときに同じく陳列した浅井冽教諭の書「奉迎の歌」「信濃国歌」と戸隠升麻について質問があり、これを宮中に献上し金一封(金百円)を与えられたことを記念し、トガクシショウマの花を図案化した記念章を作りました。その後、1914(大正3)年4月この図案を本校の徽章・校章としました。1951(昭和26)年師範学校廃止まで使用され、1947(昭和22)年新学制による附属中学校の徽章に使用されています。(信州大学教育学部九十年史編集委員会,『信州大学教育学部九十年史』,1965,p.121)
なお、教育学部附属中学校では、数年前まで構内で生徒たちがトガクシショウマを育てるなどして、師範学校の伝統を受け継いでいます。

(参考)信州大学教育学部附属長野中学校の校章(『信州大学教育学部附属長野中学校五十年史』)
トガクシショウマ:1884(明治17)年に長野県戸隠で新種植物として発見され、日本人がはじめて日本の植物につけた学名として有名。初めて発見されてからは今年で150年になる。
1902(明治35)年5月23日、皇太子殿下(大正天皇)が行啓の際、講堂に陳列した師範生徒と小学校児童の成績品をご覧になりました。このときに同じく陳列した浅井冽教諭の書「奉迎の歌」「信濃国歌」と戸隠升麻について質問があり、これを宮中に献上し金一封(金百円)を与えられたことを記念し、トガクシショウマの花を図案化した記念章を作りました。その後、1914(大正3)年4月この図案を本校の徽章・校章としました。1951(昭和26)年師範学校廃止まで使用され、1947(昭和22)年新学制による附属中学校の徽章に使用されています。(信州大学教育学部九十年史編集委員会,『信州大学教育学部九十年史』,1965,p.121)
なお、教育学部附属中学校では、数年前まで構内で生徒たちがトガクシショウマを育てるなどして、師範学校の伝統を受け継いでいます。

(参考)信州大学教育学部附属長野中学校の校章(『信州大学教育学部附属長野中学校五十年史』)
トガクシショウマ:1884(明治17)年に長野県戸隠で新種植物として発見され、日本人がはじめて日本の植物につけた学名として有名。初めて発見されてからは今年で150年になる。

(出典:環境省ホームページ<https://www.env.go.jp/park/myokotogakushi/photo/a01/post_11.html>
~ トガクシショウマ献上までのエピソード ~
宮中に献上したトガクシショウマは、師範生徒の田中貢一が教師の矢澤米三郎とともに戸隠の大洞沢で採取してきたものです。皇太子殿下が行啓されることを聞き、田中はぜひともこの花をご覧いただこうとまだ雪の解け切らない戸隠へ探しに行きます。このとき矢澤も同行しますが、この日(5月11日)は、朝からの雨が雪に変わり大洞沢の入口に着いた時には、15㎝ほど積もっていました。
~ トガクシショウマ献上までのエピソード ~
宮中に献上したトガクシショウマは、師範生徒の田中貢一が教師の矢澤米三郎とともに戸隠の大洞沢で採取してきたものです。皇太子殿下が行啓されることを聞き、田中はぜひともこの花をご覧いただこうとまだ雪の解け切らない戸隠へ探しに行きます。このとき矢澤も同行しますが、この日(5月11日)は、朝からの雨が雪に変わり大洞沢の入口に着いた時には、15㎝ほど積もっていました。
あたりは、腕の太さほどの根曲竹やイタドリが何重にも枯れ朽ちていて、1mにおよぶシダ類が一面に敷き詰められ、自然の力強さに畏敬の念を抱くほどでした。なんとか見つけようと雪を踏み進んで探しますが、樹木を倒し大きな石を飛ばすほどの雪崩の跡がいたるところにあり恐ろしい様子でした。数時間探し回りましたが一つも見つけることが出来ず、諦めて帰ろうとしたとき、近くの腐敗した落ち葉を手で掻き起こすと、小さなトガクシショウマの幼芽を見つけたのです。これには耐え切れず小躍りしました。そして、土と一緒に持ち帰り、博物教室内で栽培しました。一週間もすると見事に開花したのですが、三日もすると散ってしまうほど短命でした。
皇太子殿下を迎えた23日には、幸いにも1輪の花が咲き残っていたので、これをご覧いただきました。原龍豊校長がトガクシショウマの性質などを説明すると、殿下は熱心にご覧になりご機嫌よくとても満足されていました。こうして、殿下のご意向によりトガクシショウマを献上することになったのです。宮中へ納めたトガクシショウマは、田中と矢澤が31日に再び戸隠へ行き、採取してきたものです。
(参照:田中貢一,『信濃の花』,朝陽館蔵版,1903,p.26-34.)
※田中貢一:長野県師範学校卒業生。日本の植物学者であり、高山植物収集の先駆者でもある。
※矢澤米三郎:長野県師範学校卒業生。長野県松本女子師範学校初代校長。信州における博物学の第一人者。
(参考:大学史資料センター企画展「明治・大正期 信濃博物学の夜明けと長野県師範学校-矢澤米三郎とライチョウ標本を中心に-」Web版)
<関連リンク>
長野市戸隠で見つかった「トガクシソウ」 命名巡って研究者同士の仲が悪くなり「破門草」とも(信濃毎日新聞デジタル)
(信濃毎日新聞,朝刊8面,2025.6.2.)
(参考:大学史資料センター企画展「明治・大正期 信濃博物学の夜明けと長野県師範学校-矢澤米三郎とライチョウ標本を中心に-」Web版)
<関連リンク>
長野市戸隠で見つかった「トガクシソウ」 命名巡って研究者同士の仲が悪くなり「破門草」とも(信濃毎日新聞デジタル)
(信濃毎日新聞,朝刊8面,2025.6.2.)
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