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みたに なおずみ

三谷 尚澄

哲学・芸術論 教授

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雑文・雑記

『中世の音・近世の音/鐘の音の結ぶ世界』

先日、日本史講座の笹本正治先生とお話する機会があった。


場所はもはやおなじみの人文ホール。「納涼懇親会」と題された人文学部スタッフの集まりで、50人くらいがビール片手にわいわいやっていたときのこと。(ほぼ!)同世代の先生方と気軽に騒いだりしているうち、ふとした拍子に笹本先生と私の二人で話がはじまるような格好になったのである。


笹本先生といえば、いわずと知れた日本中世史の大専門家。白状するが、近・現代の哲学を専門にして、ごく普通に刊行され、ごく普通に流通している著作や論文ばかりを読み漁っている私のようなチンピラ研究者からすると、数百年のあいだ人目にふれず眠っていた古文書を探りだしては精密な読解をほどこす歴史学の専門家というのは、ちょっとばかり学問的コンプレックスを感じてしまう相手である。


(まわりからはそうみえなかったかもしれないが)かなり気おくれしつつ、私のほうからは「ウェーバーやフーコーのような、歴史と哲学のあいだを往復しながら仕事をしている人の作品には畏敬の念を感じます」とかとりとめのないことを、笹本先生からは、網野善彦先生が師匠だったこと、学生時代から西洋ではニーチェやホイジンガを読んできたことなどを聞かせていただいた。


話が進むうち、調子にのった私が「先生にとって歴史とはなんですか」とか、「先生はだれにむかって、なんのために歴史を書くのですか」とか、いま思うと迷惑きわなりない質問を発しはじめたころ、ふと、笹本先生が「その時代のなかに暮らした人々の心情というか、こころのありようを浮き彫りにするような仕事ができればいいな、と思っています」というようなことをおっしゃった。


「いや、それってもう半分哲学に足をつっこんじゃってるじゃないですか!」というわけで、その話題のあたりから(少なくとも私のがわでは)話が盛り上がり、いっちょう笹本先生の書いたものを読ませていただこうじゃないですか、ということになった。


残念ながら、懇親会自体はそのあたりでお開きとなり、その場ではあまりつっこんだ話もできなかったのだが、その後、笹本先生ほうから思いがけず御著書を贈っていただき、また、私なりに興味ぶかく読むことができたこともあり、先生あてに感想の手紙を書いた。


そのままにしてもよかったのだが、人文学部のこのページで、異分野間の教員同士が軽めの学問的やりとりをしてみるのも面白いんじゃないだろうか、というようなことをふと思い立ち、また、笹本先生からもべつにかまわないですよ、というお返事をいただいたので、以下、試みにその折のメールの文面を転載する。


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「異分野間の教員同士でうんぬん」といってる以上「つぎ」を考えないといかんよなあ。つぎは、やっぱり、生協でみかけたまま気になっているK先生のあの本かなあ。。。
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笹本正治先生


『中世の音・近世の音』、『日本人の川と水への意識』の両方とも、非常に興味深く拝読しました。


とくに、前者において先生が踏査された、鐘の音がわれわれの生活に対して有する意味合い/機能の歴史的変化、という問題からは、僕自身の関心とも深いところで通底する、啓発的な刺激をいただけたように思っています。


一つには、中世の鐘が担っていた呪術的な特性が、近世へと移り行くとともに異世界とのつながりを失い、「時を告げる道具/人間の生活を規制する道具」としての性格を強め行く過程の分析を、マックス・ウェーバーによる「(西洋)世界の脱呪術化」とのつながりに即して検討してみるとなにがみえてくるだろうか、というようなことを考えました。


もちろん、ウェーバーの場合、「生活世界の合理化」ないし「道具」としての観点から人間の生活を官僚主義的に管理する「鉄の檻」の起源として、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」の悲劇的な合流がもちだされます。一方、先生の打ち出される戦国時代における戦闘や城下町の経営上必要とされる「時の鐘」の普及を通じた「鐘の音の脱呪術化」という論点からは、ルターの天職概念もカルヴァンの予定説も存在しない日本の歴史において、どのような仕組みのもとに生活世界の合理化が進行したのか、という大きな問題をめぐる斬新なモデルが得られるのではないだろうか、というようなことを考えました。


(あの世とこの世をつなぐ呪術的な機能が、連絡や通信といった日常的用途へと解体される、という歴史的経緯に関しては、古代中国における「漢字」の運命をめぐっても同じ事情が指摘できるのだろうか、というようなことも感じました。白川静の研究などをみていても、漢字は裁判や占いとの強いつながりにおいて生まれたもののようですし。)


また、近世に入って、鐘の音が「あの世」と「この世」ではなく、「この世の人と人」を「つなぐ」道具としての役割を担うようになった、という論点からは、「共同体の成り立ち(現代においては、むしろ共同体の「消滅」)」をめぐる問題について、非常に重要な示唆をいただくことができたように思います。


西洋近代の生みおとした、「他者とのつながりなしに自足した個人」という構想は、『川と水への意識』において先生の指摘される小泉政権の問題のみならず、われわれの生活のいたるところで深刻な危機・根本的な欠陥を示しはじめています。


人間は、自分よりも大きな社会、大きな宇宙という行為の地平とのつながりを失うとともに、なにか大事なものを失ってしまったのではないか。ニーチェのいう「おしまいの人間たち」、そしてニーチェを引き継ぎつつウェーバーの語る「精神なき専門人、心情なき享楽人」――「矮小な快楽、みじめな安逸」を追い求めるだけであるにもかかわらず、「自分達は人間がかつて達したことのない高みにまで登り詰めた」とうぬぼれる「無のものたち」――の姿は、われわれの生活の中から「鐘の音」が失われるとともに誕生した、ということすらできるのではないか。さらにいうならば、「人と人を結びつける」ためには、共通の利益や目標だけではなく、鐘の音のような情緒的側面に訴える装置が果たす不可欠な役割に注目する必要がある、ということを先生のご指摘から読み取ることができるのではないか――。


アトム化した近代的個人の弊害と、共同体主義的人間観を回復する必要性が声高に叫ばれる反面、「同胞の認定」という原初的かつ決定的な重要性をはらんだ局面において、「音」という身体的要因が果たす役割に注目した研究は、現代の政治思想や哲学を見渡しても極めて手薄なままに留まっているように思われます。


ぼくの住んでいるところでは、夕方六時になると(山のお寺の鐘ではなく、公民館のスピーカーから)「ゆうやけこやけ」のメロディーが流れます。以前は、誰もが腕時計や携帯電話をもつこの時代、「時を告げる」どころか「騒音と紙一重」の放送など必要ないのではないか、と単純に考えていました。しかし、あのスピーカーからのメロディーが構築する「共有される時間」の意識があればこそ、ぼくの住んでいる地域では住民同士が気軽にあいさつをしたり畑の野菜をわけあったり、といった昔ながらの(「町内会」と呼ばれる)よき共同体が維持されているともいえるのではないか。先生の本を読んで、そんな考えがふと頭をよぎったりしました。


試験シーズンが終わり、僕にとっては松本の街でむかえるはじめての夏――サイトウキネンの季節でもあるわけですね――がやってきました。「人と人とがともにあること/共有された空間のなかでともに暮らすということ」とはどのようなことなのか。そして、その裏面で、あの世に旅立った人々とぼくたちのあいだに結ばれうる関係があるとすればそれはどのようなものなのか。この問題は、実をいうと、僕自身がこれまで哲学という分野で考え続けてきた問題のひとつでもあります。


暑い季節になりますが、体調にご留意のうえ、お元気でお過ごしください。


いま、窓の外から聞こえてくるセミの声が、ひょっとすると、人文学部の構成員たちを結びつけるひとつの装置としてはたらいているのかな、などと思いつつ。


三谷尚澄

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