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いとう つくす

伊藤 盡

英語学 教授

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おしごと 北欧神話

『ユリイカ:詩と批評』2014年5月号 特集マーベル映画(青土社)

マーベル・コミックとマーベル映画

『ユリイカ:詩と批評』2014年5月号表紙

月刊『ユリイカ:詩と批評』2014年5月号は特集 マーベル映画 です。 表紙は現在公開中の『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』です。 研究室に遊びに来た学生に見せたら、「カッコイイ!」だって。 どうぞ映画館で堪能して下さいね。 マーヴェル・コミックは、僕が子どもの頃、既にテレビ・アニメで観たことがあった『ファンタスティック・フォー』(邦題「宇宙忍者ゴーレム」)の一冊が、何故か我が家にあって、当時小学生だった僕には、その微妙な会話体の英語が読めるはずもなく、ただ絵を追いかけるだけだった、悔しい思いをしたことを覚えている。大人になって、英語を人様に教える職についてからだいぶ経って、その英語の呆れるようなセリフにかなり幻滅したのを覚えている。アニメの中で協力し合って活躍する4人とは違い、マーヴェル・コミックの中ではいつも汚い言葉でケンカばっかりだったんだね。 でも、今回の「特集マーベル映画」の中で、『ユリイカ』は、小野耕世さんと石川祐人さんの対談と各々のエッセイによって、マーヴェル・コミックの生まれる前から誕生後、映画会社の設立と発展の過程を、アメリカのコミック史+社会史の枠組みの中で捉え直すことができた。 アメリカのスーパーマンやバットマンといったヒーローとはひと味違う、マーヴェル・コミックのヒーローたちは、先ほどのファンタスティック・フォーの4人からも分かるとおり、欠点だらけのヒーローだ。けれども、彼らの活躍するSF的世界の中では、それが怪しくも魅力的な光を発するわけだ。スパイダーマンしかり、X−MEN、アヴェンジャーズしかり…

北欧神話のソールとロキ in マーベル映画

今回、紙面を与えられ、僕は「北欧神話の雷神ソールと『マイティ・ソー』」を書かせて戴いた。 恐らく、北欧神話直球でマイティ・ソーを論じた日本語論文はこれが最初ではないかな。 でも、それよりこの特集で光を放っている論考は鷲谷花さんの「ロキ」をめぐる鋭い考察「二一世紀マーベル・ユニヴァースにおけるロキの変貌:古典的スーパーヴィランから「セックス・シンボル」へ」だ。  こう言っては何だが、北欧神話の中で、最も現代人にウケルのはやはりロキであろう。信州大学人文学部に着任した年に卒業したある女子学生の論文も、北欧神話のロキの正体を見破ろうとする一つの試みだった。ロキとは何者か、いかなる「神」なのか。それを見きわめたいという気持ちを男性・女性に拘わらず、持ってしまうものであることを、鷲谷さんは見事に論じている。現代のロキ論を書く人は、この論考を抜きには語れないのではないだろうか。もちろん、論題にもあるとおり、あくまでも対象はマーヴェル・シネマティック・ユニヴァース(MCU)の中のロキの系譜の研究であるが、北欧神話の受容史研究としても十分にその価値を有している。

プラスティックなディジタル映画

渡邉大輔さんの「ディジタル・ヒーローの倫理的身体:マーベル映画とディジタル表現のゆくえ」も、我々がマーヴェルの映画を観るときに感じる如何ともし難い違和感、plastic な肌やボディに触れるような感覚を言語化して分析してくれている。現在のCGが可能たらしめたMCUを再現するディジタル映像は、私たちが長年親しんできたフィルム映画と何が違うのか、それを教えてくれるのが渡邉大輔氏の本論と、彼の参照する藤井仁子、鷲谷花の両映画評論と、大塚英志、三輪健太郎両メディア論者の論考に基づく、記号としての死なない身体表現を我々自身が如何に観ているかという意識の分析である。特に、論考の始めに紹介されるスパイダーマンの映像史は、マーヴェル映画のディジタル以前と以後を象徴するのが新旧スパイダーマンの映画であることを私たちに教えてくれる。  私が『マイティー・ソー』の論考でどうしても書き切れなかったディジタル時代の映像が醸す形質性への違和感の正体が、そこではっきりと意識できた。実写なのに、まるでかのCGアニメ版『ベオウルフ:呪われし勇者』(ロバート・ゼメキス監督作品、2007年)を観ているような錯覚に何度も捕らわれたのは、まさに映画自体がディジタル映像として我々の眼前に映しだされているからに他ならないが、マーベル映画はそれを意識的に構築しているとも言えるのだ。  「特集 マーベル映画」の中で特に印象的だったのは、ドル箱の映画があるのに、実入りの少ないコミックブックを出版することへの「出資者たちのためらい」が仄めかされたり、論じられているところだ(小野耕世、石川祐人「対談 マーベル映画の黎明期」p.117, 小田切博「マーベル映画はなぜ『マーベル』映画なのか?pp.133-34」。文字を読み、イメージを膨らませる「読書体験」は、たとえそれがパルプ・マガジンの漫画のセリフであろうが、大部の小説であろうが、ある種の共通項がある。頁をめくる手の動きは、私たちにアナログ的な体感的快楽をもたらしてくれる。

マーベルコミックの価値

けれど、ある種の人たちは、映画に比べて「お金」を運んでこない紙媒体(すなわちディジタルの対局の2次元空間)は、たとえ映画の原作、あるいはデーターベース(小田切博, pp.134-35)だとしてももはやそこに価値を見いだし得ないようなのだ。しかし、例えば映画の監督やスタッフとなって働くマーベル映画の働き手たちは、実はコミックの愛読者だったりする(石川祐人「映画の素材としてのコミックブック:マーベルコミックを主軸に」 p.131)。もちろん、『マイティ・ソー』のケネス・ブラナー監督もそうした1人だろう。映像、映画館は多くの人を入れる「箱」となり、それは「ドル箱」と同義になる一方で、我々「ページ・ターナー」は、その箱に入れるべき内容を考えたり、箱を構成する枠となり、あるいはフィルターとなって、箱の中の空間でどのように息をするかを考え、時に批判し、時に自らも楽しむ存在となるのだ。 コミックブックを作り、それを読む人々がいなくなれば、結局、コンテンツのない「空箱」だけが存在する。「空虚な箱」をいとおしむ連中は、金の山の上にあぐらをかく某竜と何ら変わることのない悪辣な存在でしかない。

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