教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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比較思想学会第43回大会 報告

 6月18日,19日の二日間,関西大学にて,比較思想学会第43回大会が開催されました。今回から,理事の大役を頂いたため,18日の午前中に理事会に参加しました。中村元先生からはじまる,長い伝統のある学会ですが,文系廃止論などが叫ばれる今,比較思想研究もまた大きな転換点を迎えているのかもしれません。

シンポジウム

 永井晋氏の基調講演「形而上学としての比較哲学」では,イスラム哲学研究の大家にして,比較思想にも造詣の深いアンリ・コルバン(1903-1978)の現象学――イブン・アラービーやスフラワルディーのイスラーム神学を基礎として,一切を神の顕現とみなす形で,隠れたものを開示すること――を説き明かしつつ,井筒俊彦にも通底する形而上学があること,それこそが井筒俊彦の比較哲学の背景であることを示されました。難解でしたが,それでは中村元や,B.K.マティラル,W. ハルプファスと言った比較哲学のパイオニア達は,それぞれ,どのような形而上学を前提にしていたのだろうか,と考えさせられる内容でした。  基調講演に続くシンポジウムのテーマは「再考・日本人の思惟方法」。言うまでもなく,中村元の『東洋人の思惟方法』「第4編 日本人の思惟方法」が意識されています。中村先生は,本書のなかで「与えられた現実の容認」,「人倫重視的傾向」,「非合理主義的傾向」を日本的思惟を特徴づけるものとして提示しましたが,今回のシンポジウムは,その「再考」を企図されていたように私の目には映りました。  岩野卓司氏の「共同体と贈与をめぐる日本的思惟の深層-宮沢賢治の場合-」では,〈贈与〉をキーワードとして,賢治の仏教観・自然観の根底にある〈贈与〉の思想に焦点があてられました。このなかで,「山川草木悉皆成仏」の思想にも触れられましたが,中村先生もまた,「日本人の思惟方法」でこの問題に言及しています。草木にまで精神性を認めることはインド仏教にもあるが,草木が草木のままで成仏するという発想はない,という中村先生の指摘など,あらためて考え直す必要がありそうです。

 木岡伸夫氏の「〈あいだ〉を開く思考-近代日本哲学への視座」は,「二値論理を旨とする西洋の「ロゴス的論理」は,人と人の〈あいだ〉を閉ざす。これに対して,東洋の「レンマ的論理」(即の論理)は,「中」の境域を確立することによって〈あいだ〉を開く」という文にあるよう,西田幾多郎の高弟・山内得立の『ロゴスとレンマ』の思想を展開させ,日本哲学の可能性を考察したものです。中村先生は,日本人の非合理主義的傾向を厳しく指摘されましたが,このような「レンマ的論理」などを聞くと,また別の見方が見えてきそうです。  竹内整一氏の「「おのずから」と「みずから」のあわい」は,明晰なご発表でした。私たちは,みずから,主体的に物事を決定し,行為しているかのように振る舞いながらも,同時にそれが,おのずから,自然の成り行きのままに,あるいは何か大きな力により動かされるままに,そうなっている,という感覚をもちます。「自ら」という日本語に二つの意味があるように,また,自発の助動詞「れる」「られる」にも二つの意味があるように,日本人は,西洋的な「個人」とは異なる考え方で自身と自身を取り巻く世界を見ています。竹内先生は,「おのずから」と「みずから」の「あわい」,あるいは,「みずから」と「みずから」の「あわい」に注目されつつ,その「あわい」で成立する「かなし」(大悲,あるいは他者への慈しみ)を解き明かされました。中村先生が「非合理主義的傾向」とされた特質を逆手にとり,そこから,日本独特の豊かな思索とそこから広がる新たな倫理の可能性を示してくださいました。

仏教認識論とエナクティブ・アプローチ

 2日目の個人発表では,二つの部会に分かれて,興味深い個人発表が続きました。このなかで,「仏教認識論とエナクティブ・アプローチ」と題する発表を行いました。これまでも,筑波大学での比較思想のシンポジウムや信州大学でのワークショップ等で,特に所与の神話や知覚の構造,擬似的知覚の問題などを発表してきましたが,知覚と行為との関連ということが,ずっと気になっていたことでした。そこで,アルヴァ・ノエの『知覚のなかの行為』などを読みつつ,仏教認識論との関連を考えていたのですが,ノエの議論に先行するフランシスコ・ヴァレラ/エヴァン・トンプソン/エレノア・ロッシュの『身体化された心』を読むうちに,心・身体・環境という三者の相互作用の関連をしっかり考えないと,仏教認識論における知覚と行為の関連についての議論も理解できないのではないか,と思いいたったわけです。  ところが,ヴァレラ等の本に手を出したのが運のつきで,エナクティブ・アプローチなるものの正体をつかむのに一苦労。さらに,そこから仏教認識論における身体論を考えるために,久々に修士論文を引っ張り出し,20年ほど前に取り組んだ,輪廻の論証における心身関係論を読み直したり,…まぁ,いろいろと試行錯誤してまとめましたが,さすがに,議論に穴がありすぎました。発表の際にも貴重なコメント等をいただき,また,同僚の三谷先生からもコメントをいただき,現在,書き直しを進めています。  要は,(1)身体は,必ずしも物理的なものではなく,意識により変容すること,(2)通常の知覚の場合に,身体的認知などを繰り返し,習慣的に形成された決まった物の見方が働くことで,知覚が成立すること,(3)瞑想は,自我という中心を離れた物の見方を,新たに習慣化して,身につける手段であること,という三点を仏教認識論の議論から導こうとしたわけですが…,そう簡単ではありませんでした。  最後に,関西大学でお世話になった酒井真道氏に感謝です。関西大学は,広大な敷地に緑あふれる,本当に素敵なキャンパスでした。

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