教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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国際ワークショップ 清弁と二諦説 報告

プログラム

去る5月28日29日の両日にわたり,龍谷大学にて,「清弁と二諦説」の国際ワークショップが開催されました。 プログラム 5月28日 1. Deguchi, Yasuo 出口康夫  , “Bhāviveka on Negation from a Contemporary Viewpoint. 2. Eckel, M. David, “The Two Truths and the Structure of the Bodhisattva Path in “The Introduction to the Nectar of Reality” (Madhyamahṛdayakārikā chapters 1-3).” 3. Siderits, Mark, “Two Truths, the Inexpressible and Analysis.” 4. Ye, Shaoyong, “To establish the middle way on one truth or two truths?” 5. He, Huanhuan, “Bhāviveka's Two Truths in his *Hastaratna.” 6. Tamura, Masaki 田村昌己, “Bhāviveka on saṃvṛti.” 7. Ikeda, Michihiro 池田道浩, “tathyasaṃvṛti and pṛṣṭhalabdhajñāna.” 8. Hayashima, Satoshi 早島慧, “Satyadvaya in the Mādhyamika and the Yogâcāra: The Transition of Interpretations.” 9. Ichigo, Masamichi 一郷正道, “Śāntarakṣita on Satyadvaya.” 5月29日 10. Kimura, Yukari 木村紫, “Satyadvaya in the Abhidharmakośabhāṣya: Aryasatya and the Knowledge of the Others.” 11. Niisaku, Yoshiaki 新作慶明, “Candrakīrti's Criticism against Bhāviveka Seen in the Prasannapāda Chapter 18.” 12. Li, Shenghai “Dimensions of Candrakīrti's Conventional Reality and What is Taught in the Abhidharma.” 13. Sato, Akira 佐藤晃, “Kamalaśīla's Interpretation of Satyadvaya and the Proofs on Absence of Intrinsic Nature.” 15. Kumagai, Seiji 熊谷誠慈, “Tibetan Interpretations of Satyadvaya.” 16. Saito, Akira 斎藤明, “Bhāviveka's Concept of Prajñā in the Context of Two Truths.” Katsura, Shoryu 桂紹隆 (Closing Remarks)

江島先生の想い出

 二諦説とは,ナーガールジュナが『中論』第24章第8-10偈で述べた内容に端を発し,「諦」(satya)―この語は「真理」(truth)とも「存在」(reality)とも訳されますが―には,世俗的な真理/存在(世俗諦)と究極的な真理/存在(勝義諦)とがあるということ,そして,後者は前者に依らなければ到達できないものであること,を説明するものです。  この二諦説は,中観派の思想家たちにより,様々な角度から論じられましたが,とりわけ,自立論証派の巨匠バーヴィヴェーカ(清弁)は,独特の見解を保持していました。彼は,空性論証のための推論式において「勝義の観点から」(paramārthatas)という限定詞をつけることを提案します。論証そのものは,言葉という世俗的なものに属しているにもかかわらず,それが勝義の世界を目指すかぎりにおいて,勝義への橋渡しをする方便として,「勝義に相応するもの」と言えるからです。バーヴィヴェーカは,勝義(parama-artha)とは,「優れた対象」,「優れたものの対象」という意味だけではなく,「勝義に相応するもの」という第三の意味をもつものと考えたのです。…という上記の内容は,私の恩師である江島恵教先生の受け売りです。詳しくは,『中観思想の展開』(春秋社)pp. 102-105をご覧ください。  今回,亡くなられた江島先生のことを思い出しながら,魅力的なワークショップを楽しむことができました。

感想(1)

 出口氏の発表は,漢訳のみで残るバーヴィヴェーカの『大乗掌珍論』,特に,その二種の否定に注目しながら,現代の論理学の観点から,その推論式の構造を解明するものでした。このあたり,曖昧な記憶になりますが,確か,二重否定の除去則と排中律という二つの規則について,前者を保持しながら,後者のみを認めない立場から,バーヴィヴェーカの論理を読み取ろうとするものだったと思います。そして,その立場を取ることから帰結する形而上学が,二諦説,すなわち,二種類のリアリティを認める立場ということになります。この後に続く多くの発表者が,『中論』を典拠として二諦説を認めることを所与のものと見なしているのに対して,出口先生(のみ)が,「なぜ中観派は二諦説を必要としたのか」という根本的な問題に迫っていたように思われます。それは,彼らの論理学が要請する必然的な帰結だったのかどうか,非常に興味深い問題です。二重否定除去則を保持することと,二種の否定(定立的否定と純粋否定)との関係について,私にはまだ理解できないところがあります。どこかでまた続きをお聞きしたいものです。  エッケル氏の発表は,『中観心論』第3章12-13偈,すなわち,「真実の高殿という頂きへ登ることは正しい世俗の階梯がなければ可能でない。したがって,まず世俗真理によって知を明晰にし,その上で諸法の独自相あるいは共通相について充分に確知すべきである」(江島1980: 412)から説き起こし,この章全体に菩薩道の実践というモチーフが埋め込まれているのではないか,という問題を提起されました。精緻なテキストの解読に基づきつつも,天台や十牛図など,東アジアにおける空思想と実践の展開まで視野におさめる,刺激的な内容でした。

感想(2)

 シデリッツ氏の発表は,勝義諦・世俗諦それぞれの哲学的な問題を取り上げたものでした。前者については,「勝義諦は無い,ということが勝義諦である」(the ultimate truth is that there is no ultimate truth)というテーゼを理解するための二つの鍵-(1) アビダルマにおいて勝義諦とは自性をもつものであり,世俗諦は自性をもたない事物とされたのに対して,中観派は後者が前者の基礎となるという考えを拒否すること,(2) 「真理」は命題に対して適用される言葉であり,「存在」とは異なること―が示されました。この結果,問題のテーゼは,ナーガールジュナが言う勝義諦とは,(1) アビダルマで言われる勝義諦とは異なる,(2) 究極的に真であるような命題はない,という二つのことを含意するもの,ということになります。  Ye氏の発表は,『中論』注釈者たちの著作を精査しながら,バーヴィヴェーカ以前/以後で,二諦説の理解にどのような決定的な変化が生じたのか,を明らかにしたものです。その違いは,次のようにまとめられるでしょう。バーヴィヴェーカ以前において,世俗諦は勝義諦へ至るための方便であり,勝義諦と不可分のもの,場合によっては,同一のリアリティに対する二つの観点の一つとして捉えられていたのに対して,バーヴィヴェーカによってはじめて,対論者を論駁するための有効な手段として意識されるようになった,と。バーヴィヴェーカにとって世俗諦とは何だったのか,は梶山先生や松本先生等,議論されてきたテーマでもあります。Ye氏の発表は,そのあたりの議論を読み直す契機にもなりそうです。    He氏の発表は,『大乗掌珍論』のテキストのタイトル,ならびにサーンキャ批判の個所を丁寧に分析したものでした。  田村氏の発表は,『中観心論』第5章を中心に,論理と聖典の役割について詳細な分析を加えたものです。  池田氏は,『中観心論』に登場する「正しい世俗」(tathyasaṃvṛti)について,それが注釈である『思択炎』では「正しい世俗の認識」と捉えられ,さらには,それがブッダの後得智と同定されることの奇妙さに注目し,『思択炎』作者が瑜伽行派からの影響の下で,そのような注釈をなした可能性を指摘されました。確かに,『中観心論』第5章の『思択炎』にはアーラヤ識に関する詳しい説明が施されたりしていますから,池田氏の想定は妥当なもののように思われました。  早島氏は,『中辺分別論』における「勝義」・「世俗」の語義解釈を検討し,中観派と瑜伽行派の相互交流の中で,解釈が批判的に継承・発展してゆく姿を明瞭に示してくれました。  初日の最後には,一郷氏がシャーンタラクシタの二諦説について,周辺資料も合わせながら,詳細な検討を加えられました。特に結論部分で,形象虚偽論の瑜伽行派と瑜伽行中観派との違いについて,前者は不二智を真実(real)とみなすが,後者は,それを正しい世俗とみなす,と述べられているところが,印象的でした。

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