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いとう つくす

伊藤 盡

英語学 教授

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第82回日本英文学会(第1日目)

二日間にわたる第82回 日本英文学会(全国大会)が神戸大学の国際文化学部のあるキャンパスで開かれました。

今回の参加の目的は、アイルランドにおいてゲール語話者が英語と言語接触を行った歴史の中から生まれたアイルランド独自の英語表現の文法的記述およびその言語意識に関する研究発表の司会をするのが第一です。

発表者は山形大学の嶋田珠巳先生。司会の準備の段階でいろいろな勉強をすることができ、自分にとっても意義深い発表です。ただ、いつ神戸入りできるかわからなかったので、ぎりぎりの直前まで関西地区のトールキン協会日本支部の方たちに連絡をとることはできませんでした。でも、私の予定を聞いて快く学会の前にお会いして下さる約束をして下さいました。

その方々の待つはずの新神戸駅にて新幹線を降りると、なんと大学時代の先輩である中世英語研究者の先輩に久しぶりにお会いすることができました。このように久しぶりに懐かしいお顔を拝することができるのも、学会の楽しみです。

さて、新神戸を降りるとトールキン協会の方々とお昼を御一緒しようということになりましたが、結局コーヒー屋さんで甘いものを食べながら、お話会。続けて南京町で美味しい肉まんや神戸牛メンチカツなるものを食べました。トールキンに関する集いをまた開こうという約束をしたあと、神戸大学までのご案内まで受けて、今回は別れました。

さて本題の日本英文学会のおはなし。

研究発表やシンポジウムにも是非伺いたかったものがありました。
初日はなんと言っても中英語ロマンスHavelokの研究をすることで以前から注目していた立教大学大学院の岡本広毅さんの発表。特に、中世イングランドにおいてnationという概念をあたかも当時の人々が持っていたかのような解釈をするTh. Turville-Petreの解釈を批判的に発展するということを謳ったabstractが既に発表されていました。

ところで、この「nation」という語を、近代以降の人間が使ってしまうと、その語によって概念が規定されてしまうという考えを持つ中世学者は多く、私もその一人なので、Turville-Petreの意見には異論があるのです。岡本さんがそれをどのように解決するのかに興味がありました。もちろん、Havelokといえば、主人公は北欧デーン人であり、彼がイングランドの王女と結婚してイングランドの王になる、というあらすじを持ち、私の博士課程に所属した際に最も興味を持って研究した作品です。その作品研究という意味合いからも期待を持って臨みました。

次に目当てだったのが、中世英語作品、特にマロリーの作品のグロッサリーを作成する研究者たちの集まりの中で、中英語のグロッサリーを21世紀に作成する意味や方法を問うシンポジウムです。兵庫教育大の谷明信先生を司会&パネリストの一人として、大阪学院大学の近藤美奈先生Sir Gawain and the Green Knight研究、実際にグロッサリーを作成中の大阪大学の尾崎久男先生をも取り上げるシンポジウムですから、出席しないわけにはいきません。

残念なことは、岡本さんの発表時間がシンポジウムの途中に位置すること。どうしても、シンポジウムの途中で席を立たねばなりません。でもこういうことはどの学会に参加しても起こること。シンポジウムのパネリストの方々には申し訳ないことですが。

岡本さんの御発表は、発表後にフロアからいろいろな意見が飛び交い、議論を読む御発表でした。まだ若い研究者ですから、これから更に多くの視点や考え方を学ぶことで研究をさらに深めて下さることでしょう。将来が楽しみです。

一方、グロッサリーのシンポジウムも最後にいろいろな議論が出て来る活発なものとなりました。特に、インナーネット時代になり、ハイパーリンクが可能となり、視覚的にテキストとグロッサリーを同じ画面上で異なるウィンドウを開けることで一目で見ることが技術的に可能となる場合、研究者あるいは中世英文学作品の学習者には便利になる状況が生まれそうだという話になりました。これは、もしかしたら、ネット上で外国語の文章(テキスト)を読みながら、ネットもしくはパソコン上で辞書ソフトを立ち上げて見れば、すらすらと読むことができると考える学生諸君の考え方に似ています。ところが、そこに落とし穴があるのです。

中世のテクストは、基本的に写本に書かれております。写本は、特に作品によってはこの世にただ一つ伝わった羊皮紙の上にしか書かれていないことがあります。そして、その場合、すべての語が問題なく読めるわけではなく、写字生の書き間違いや事故によって読めなくなった文字が散見されるのです。そうなると、研究者は、そこに書かれている文字を、学術的な裏づけをして訂正したり補ったりしながら、中世の英文テクストを書き換えることになるのです。当然ながら、意見は学者毎に違っていたりします。つまり、語の解釈のみならず、文の解釈も、私たちはこれまでの学者たちの意見をいろいろと参照しながら、ここはこういう文意、あそこはこういう文意という風に理解しながら読まなくてはならなくなるのです。

当然のことですが、そうなると校訂する人ごとにグロッサリーは異なることになります。その一方で、ある作品の写本が複数ある場合、その複数すべての内容が完璧に同じであれば問題はないのですが、写本毎に異なる場合、さて、どうしたらよいでしょう。私たちは、同じ作品でありながら、少しずつ異なる内容をもった文をそれぞれ比較しながら読まなければならなくなるわけです。

ということは、グロッサリーを造るという作業は、実のところ、ある写本に書かれた語句のすべての可能性について知るだけでなく、その中で取捨選択をして、語義を確定する必要がある、ということになります。

平たく言えば、「自分で意味を定義すりゃいいのよ」ということになります。

もしそうでなければ、これまでの学者の意見(いわゆる「先行研究」というヤツです)をただ並列的に列挙するだけで終わってしまいます。事実、そうして、自分の「オリジナル」の意見をまったく言えなくて苦悩する若手研究者もいるわけです。

文献学者は、英語の歴史的変遷や音声的な特徴、語義の変遷や広がり、どの地域でどのような語(発音)が使われたかという基盤的知識を元に、それぞれの文章の語義を選択し、この文意はこうであると確定することが求められるわけです。

そのようなことを、シンポジウムが終わってから、パネリストの一人である近藤先生とお話しする機会がありました。文学者や言語学者は中世の英語文献学研究に対して、「読めればいいのだろう」などと言う人がいますが、とんでもないことです。

まず、きちんと「読む」ということを真摯に追求する時、「読めればよい」ということは究極的な目的だとしても、そこに至るために重ねるべき学究的な努力なしには到底「読む」ことなどできないわけです。むしろ、そのような努力なしに文学作品を「読んでいる」と考える文学者がいるとすればその方が驚きでしょう。


ただ、そのような文献を集めることはこれまでは決して容易ではありませんでしたし、コンピュータが発達した今でも、実際に「読む」作業にかかる時間的、精神的労力が大きなことは、僕のゼミに参加している学生諸君は味わっているはずです。
そして、その労力を惜しまず続ける若き学生や研究者が増えることから、人文科学の発達があるのだと言うことができると思うのです。

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