教員紹介

はやさか としひろ

早坂 俊廣

哲学・芸術論 教授

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中国関係

安徽調査報告(3)斗山街

斗山街入り口

「一人寂しく学友から離れた生活が長く続きましたので、四方に教えを請いに伺おうと思い立ちました。先日、遠く千里に足をのばし、釣台を経て斉雲山に登り、さらには紫陽山に足を運んで、斗山の精舎に宿を取りました。新安(徽州)の同志諸君と数日間の会を催すことができました。そのねらいは、もちろん山水の間に遊ぶことにあったのではありません。」(「斗山留別諸同志漫語」、『王畿集』付録二所収『龍渓会語』) ――断言しますが、嘘ですね、言い訳ですね。絶対に「山水の間に遊ぶ」ために行ったのだと思います。あまりしつこく書くと、「じゃあ、お前の中国出張はどうなんだ?」と問いただされそうなので止めておきますが、要するに、「目的は山水にあったんだろ?!」と疑いたくなるほど、徽州は美しい土地でした。

斗山街・許国石坊

全国に名だたる「徽州商人」の里である「徽州府」は、一方で、多くの学者・役人を輩出した土地でもありました。「商人の里なのに」ではなく「商人の里だから」なんだと思いますが、学問に志のある人が多くいたこの土地を、我らが王畿先生も訪れています。冒頭に掲げた文章は、その時の記録の一部です。現在の地名からの推測ですが、安徽省黄山市歙県に「斗山の精舎」はあったようです。歙(しょう、she4)県は、今では「黄山市」の一部に組み込まれ、黄山市の中心地「屯渓」に比すべくもない状態ですが、もともと「徽州府」の府城はこちら歙県に置かれていました。ですから、今やレトロ街になっている「斗山街」の入り口に「徽州古城」と掲げてある(上の写真参照)のは「誤表示」でも「偽装」でもありません。以前に『龍渓会語』を読んだ際、「釣台を経て斉雲山に登り、さらには紫陽山に足を運んで、斗山の精舎に」という一節が今ひとつイメージできなかったのですが、「新安江沿いに移動して、浙江省杭州市桐廬県にある厳子陵釣台に寄った後、安徽省黄山市休寧県の斉雲山に登ったんだ。」「で、当時すでに立派な書院があったはずの紫陽山に立ち寄って、宿は斗山に取ったんだな・・・」といったイメージをしっかり作ることができました。「斗山」というから「山」奥だと思っていましたが(確かに緩やかな傾斜はありましたが)、政治・商業の拠点地に泊まっただけの話でした。東京「青山」のホテルに泊まった記録を見た数百年後の人たちが「何でお墓に泊まったのだ?」と必死に考証するような、そんな間違いを犯すところでした。

うだつの上がった方々の家

何にせよ、かつては極めて裕福な方々が住まわれていた街であろうことは、この牆壁の高さからも分かります。 学術史から見た場合、この「徽州」は、「朱熹の里」でもあります。彼が生まれたのは福建省ですが、本籍地は「婺源」です。現在「婺源」が江西省に属しているため、混乱しがちですが、婺源はもともと徽州六県の一つでした。なおかつ、朱熹の父である朱松が徽州府城、つまり今の歙県の紫陽山で学業を修めた因縁から、「紫陽」は朱熹の別号となります。つまり、徽州は朱子学にとって特別な(場所として称揚され続けた)土地だったのです。今回は、時間の都合上(しかも、陽明学に関する調査だったので)「婺源」にまで足をのばすことができませんでしたが、いつの日か訪れてみたいと思っています。ちなみに、現地の方に「紫陽山はどこにありますか?」と聞いたところ、「あっち!」と、非常にざっくりした回答をいただきました。これまた時間切れで確定できず、残念でした。

「徽州文化園」に復元された碑坊

なお、右の写真に(拡大したら)見える「文公闕里」の文字ですが、「文公」とは「朱文公」、つまり朱熹のこと、「闕里」は「ふるさと」という意味です。北宋の二程子(程顥・程頤兄弟)の先祖も徽州出身だという「伝説」があって、歙県郊外の「徽州文化園」には、「程朱闕里」「洛閩溯源」と記された碑坊も復元されていました(「洛」も「閩」も地名で、それぞれ二程・朱熹にゆかりの地)。「盛ってるねえ-」と慨嘆しましたが、それが当時の/現地の人たちにとっての「現実」であるのならば、それはそれで一概に否定できないとも思いました。こんなことを考えさせてくれた意義深い調査でした。調査のねらいは、もちろん山水の間に遊ぶことにあったのではありません!

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