教員紹介

はやさか としひろ

早坂 俊廣

哲学・芸術論 教授

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中国関係 寧波プロジェクト

西渓路

寧波出身の思想家・万表(1498-1556)について、あれこれ調べている。彼の伝記を読んで(個人的に)驚いたのだが、彼の一族の墓や別荘が今の浙江省杭州市の「西渓」にあり、彼はしばしばこの地を訪れ時を過ごしたようである。

「西渓」という地名に、私は非常に反応してしまう。1996年から1997年にかけて、杭州大学で在外研修を行なったことがある。その時に住んでい た外国人用宿舎は「西渓路」にあった。当時の「西渓路」は、小屋のような小さな商店が切れ目なく並んで、実に活気のある通りであった。当時2歳だった息子 の遊び相手の少女も、息子を我が子のように可愛がってくれた宿舎の服務員の女性も、「西渓路」に住んでいた。我々家族にとって、中国とは、何はさておき 「西渓路」なのである。

いまの西渓路に、当時の趣きはほとんど残っていない。小屋のような商店はその大部分が撤去された。

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上の写真は、2年ほど前に撮影した、西渓路と杭大路の交差点の風景である。そういえば、杭大路の名前の由来である「杭州大学」も、とっくの昔に「浙江大学」に合併されてしまった。聞くところによると、キャンパス移転の話もあるという。

とにかく、何もかも変わってしまった。商店が撤去されて道が広くなった西渓路は、バスも通れる幅になった。

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上の写真は、西渓路にあるバス亭である。以前は、個人商店にふさがれて(占拠されて?)見えなかった碑も、ちゃんと見えるようになった。バス亭の名 前には、「抗日碑」という文字が見える。説明によれば、1932年に日本軍と戦った「国民革命軍」を讃える碑のようだ。のんきな日本人一家にとって杭州在 住時にその碑が見えなかったことが、幸いだったのか不幸だったのか、それは分からない。しかし、それでも、私たち一家にとって、中国とは何はさておき「西 渓路」であることに変わりはない。

明代の万表には、「西渓」はどう見えていたのだろう。「西渓」という言葉は、彼にどのような情感を喚起したのだろうか?私と万表は違うし、西渓=西渓路ではないのだが、そんなことを痛切に知りたいと思ったりもする。

私事になるが、最近、自宅を引っ越した。引越しで発掘されたアルバムを眺めながら、小学生の子供達が毎晩、「思い出に浸る会」、略称「おもひた」を 開いている。「小学生は未来を見ろよ!」とそのたびに注意するのだが、私もそれに影響されて、つい「おもひた」してしまった。学術的に「西渓」を知りたい 方は、杭州出版社『西渓』をご覧いただきたい。写真満載の「西湖全書」シリーズの中の一冊である。

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