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教室の歴史

沿革概要

当教室は、初代・西丸四方教授以来、原田憲一教授,融道男教授,吉松和哉教授,天野直二教授、そして鷲塚伸介教授へと引き継がれ、現在に至っている。

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西丸教授時代及び大学紛争に伴う教室空白期

西丸教授時代の歩みに関しては、信州大学医学部25年史に、西丸教授御自身によって執筆がなされており、以下は、その要旨を抜粋させて頂いたものである。

昭和24年御赴任当時、外来や病室はおろか、顕微鏡一台、本一冊もなく、まさに「花のお江戸からボルネオの山奥へ来たような」心境であられたという。それだけに、診療場所や機材の確保、スタッフ更には患者集めに至るまで、創設期の御苦労はひとかたならぬものであった。しかし、労をいとわれる事もなく、前任の東京女子医大の弟子たちや市中病院の協力を得られつつ、昭和31年には新海助教授(慶大)が、更に昭和35年には水島講師(松本医専)が就任。次第に教室としての陣容が整えられてゆく。

教授御自身は、精神病理学(病的心理学)を専攻され、この分野における我が国での指導的立場に居られた。また、当時から訳・著書も多く、とりわけヤスパースの精神病理学総論(岩波)及びクレッチマーの医学的心理学(みすず)の翻訳や、周知の医学生向け教科書『精神医学入門』(南山堂)等は、今日に至るまでその需要が絶えない。一方、教授の闊達でリベラルな御人柄は、そのまま教室の雰囲気へとも反映されていたようである。学問を遊びとみる時におもしろいものが出るという持論から、講座の研究テーマも各自の自主性にまかせられるという風であった。

以上が25年史のあらましであるが、その後、全国的に波及した大学紛争の渦中にあって、昭和44年西丸教授が退任。以後、しばらく教授不在期を余儀なくされる。この間、当教室では医局講座制にもとづく旧体制を解体し、新たに教室会議が結成された。この教室会議は、教室員各自の主体的参加と責任を前提に、とりわけ人事の公募と互選による民主的運営をその骨子とするものであった。同時にこの運動は、既存の諸関連病院との交流もすべて白紙に戻す型となった。

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原田教授時代

このような状況下、自らも東大紛争を通過されてきた原田憲一教授が昭和47年に就任。教授は管理者としての責任上、人事上の拒否権のみを要請され、それ以外は教室会議規約を尊重するという態度で臨まれた。研究領域にあっては、教授の専門領域である脳組織病理学の他、精神病理学,精神生理学,精神薬理学に大別され、後三者については各々、新海助教授,田中講師,小片(寛)講師の指導のもとに地道な取り組みがなされだした。

原田教授は、西丸教授以来のリベラルな伝統を継承されつつ、一方で研究至上主義の弊害をも熟知されていただけに、臨床家としての在り方を最重視する姿勢を堅持され、自らの後ろ姿で講座員を導くという態度で一貫された。この基本姿勢は、当時、基礎学問としての精神病理学の大切さを強調されながらも、そこに治療的視点の欠落していた点を反省されていた新海助教授の歩みとも、おのずと相呼応するものであった。なお、教育面に関し、講座会議から委嘱される型での教育委員会が設けられ、講師以上の三役を中心メンバーとして、各々が役割分担しつつ臨む事になった。この会は、専門領域の異なる各委員が共通の場において情報・意見交換をする中で、おのずと相互の研鑚がなされてもゆく性質のものであった。

一方、入局者の動向は、平均すると毎年数人前後で、入局後の研修や進路は、基本的な訓練と知識の習得以外、すべて自己決定に委ねられていた。多くは、数年内に第一線現場へと出向く傾向にあったが、その際も当人と病院側との個人交渉が原則であった。

昭和55年、新海助教授が数々の逸話を残されて退官された。

やがて、この間の歩みの具体的成果の一つは、教育スタッフの共著による医心理学(朝倉書店)の発刊へと結実。この著書は、主として医学部教養部生及び、広く精神医療に携わるスタッフを対象に、日頃の各編者の講義録を基に編集したものである。昨今、医学教育で重視されだしている「医療者―患者関係」をベースに、医療と医学に関するテーマを各分野毎に扱った内容となっている。なお、この間、当教室関連の学術交流として、第18回日本神経病理学会総会,第11回中部精神神経薬理研究会,第7回日本内観学会,第7回・第8回精神病理懇話会(第7回会長:宮坂松南病院長,第8回会長:片桐小諸療養所長)等が開催されている。また、昭和56年、信州精神科医会を母体に信州精神神経学会が再発足し、今日に至っている。

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融教授時代

昭和59年、原田教授が母校東大の教授へと転任。代わって、昭和60年、融道男教授(精神薬理学専攻)が着任。従来の教室の流れを基本的に引き継いでいただくと共に、教育スタッフも、小片(寛)助教授,湯沢講師(記述精神病理学),巽講師(力動精神病理学)へと交代していく(途中、湯沢講師の退職に伴い、同分野の庄田助手が昇格)。

着任後、さっそく導入された新しい形態として、既に東京医歯大で実施されてきた病棟カンファレンスがある。毎火曜の午前半日、講座全員及びコメディカルスタッフや実習学生参加のもと、入院患者について各主治医が順次経過報告し、教授面接後、全員で討論するという形式のものである。これは、従来、各々別個に行われてきた研修医教育,医看カンファレンス,学生病棟実習の一端などを同時に兼ねるものであり、効率の良さと共に、情報の交換や共有という点で貴重な場となった。また、教室の将来を踏まえ第一線における卒後研修の場を確保してゆく必要性を述べられ、関連病院での研修方式の実施へと向かい出す。

なお、この頃には大学紛争の影響も沈静化し、当講座も、大学や医学部全体といった上部運営機構との兼ね合いや、卒後教育システムの時代的要請,更には地域医療との関連性などを抜きで独自に機能する事が次第に難しくなっていく時期でもあった。講座運営の在り方も、この時代的変遷に応じ、教育委員会に医局長,外来医長,病棟医長の参加を得て、ここが次第に運営委員会的な機能を担うようになっていった。

残念なことに、融教授も約4年半の在任後、東京医歯大教授へと転任されてゆく。

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吉松教授時代

平成2年,吉松和哉教授が着任。その際、教室の今後の研究臨床活動の展望として、精神障害に対する「生物・心理・社会」という3つの次元からの接近と、その結合の必要性とが説かれた。そして、生物学的次元の担当を小片助教授に委ねられつつ、教授御自身は心理・社会的次元に関する指導者としての立場に立たれた。

学術面では、平成4年の春に第12回社会精神医学会の主管を成功させ、教室運営面では、教育委員会が実質的な運営を担っている実態を踏まえた、講座規約改正があった。

臨床活動では、児童思春期外来の新設,院内のリエゾン・コンサルテーション精神医療活動の充実という進歩が在った。

教育活動においては、旧教養部の廃止,平成7年からの6年一貫教育の導入に応じて、医心理学,臨床医学入門,統合講義,自主研究,臨床実習,臨床演習と題された講義もしくは実習を卒前に行う事によって精神医学の本質の伝授を目指すと共に、卒後研修でのスーパーローテート方式の導入への対応も考慮し、他科部分ローテーションが採用された。

在任中の大きな出来事としては平成9年8月の病棟の移転が挙げられる。旧病棟の南1階から、新病棟の西3階(当時の武藤病棟医長が設計した)へ。移転当初、患者さんからは「ホテルのように綺麗だ」とも言われた新病棟は、旧病棟と同じ40床で開放病棟であったが、病室は6人部屋から4人部屋になり、差額の個室も作られた。また、新たに保護室が設置され、夜間には施錠がされる事となった。

吉松教授は、平成12年に、惜しまれつつも定年退職された。

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天野教授時代

平成12年8月、天野直二教授が就任。着任後まもなく、天野教授は長野県内関連病院をくまなく回られた。地域の第一線で奮闘する医療機関との連携を深め、県内精神医療のさらなる向上を目指してのことである。また、研究領域にあっては、ご専門の神経病理学の研究を開始された。

平成13年、天野教授は「もの忘れ外来」を立ち上げられた。また、翌年には児童精神医学を専門とする診療部門としては全国の国立大学で初めてとなる、「子供のこころ診療部」を開設したことで、精神医学教室の体制はきわめて充実したものとなった。

平成16年には、第19回日本老年精神医学会を開催した。シンポジウムでは「老年期の妄想」をメインテーマに据え、遅発性パラフレニア、同居人妄想、人物誤認、否定妄想等が取り上げられるなど、天野教授ならではの切り口が随所に見られ、非常に意義深い学会となった。平成18年には第24回日本青年期精神療法学会を開催した。子どものこころ診療部が主体になって、企画、運営した学会であったが、同診療部開設3年目にして全国レベルの学会を主催したことは、児童青年期精神医学における教室の意気込みを全国に示す格好の場となった。平成25年に開催した第32回日本認知症学会は天野教授を学会長に、また池田修一内科学第三講座教授、樋口京一大学院疾患予防医科学系加齢生物学講座教授のお二人を副会長として、「認知症研究の英知と臨床の実践」をテーマに行われ、参加人数1900名余、11本のシンポジウムほかにJorge A Ghiso教授による招請講演、特別講演、教育講演やNeuro CPCなどの企画に加え、一般演題は260題を超えるなど、教室が主体となって開催した学会としては過去最大の規模のものとなった。

新潟県中越地震、東日本大震災後の精神医療支援として、当教室から「こころのケアチーム」を派遣、特に新潟県中越地震では、天野教授自らが十日町の被災地に出発され、事あらば教授自ら先頭に立って陣頭指揮を執る普段の姿勢そのままであった。東日本大震災があった平成23年には、第31回日本精神科診断学会を開催したが、特別報告として「震災における精神科からの支援」をプログラムに盛り込み、原発事故後のケアや、中越地震を踏まえた中長期支援のあり方等がとりあげられ、この年ならではの企画であった。

同年から平成26年まで病院長をお務めになり、活躍された後、平成26年3月末で病院長の任期満了となった天野教授は、教授として最後の1年間、教室の臨床、教育、研究すべてのレベルアップに精力的に取り組まれ、平成27年3月末に、惜しまれつつも退官された。

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