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もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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書籍紹介 船山徹『仏典はどう漢訳されたのか』 

『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』、岩波書店、2013

 著者である船山徹先生からご恵贈いただきました。目下、取り組んでおられるテーマ、――様々な仏典はインドから中国へどのようにして伝播し、そして、言語的・文化的背景を異にする土壌において、どのような形で受容されたのか――が詳論されています。もしくは、仏典が漢訳される現場を種々の文献から復元し、その問題点をあぶりだす試みと言ってもよいでしょう。  これがいかに重要な研究であるか、それはサンスクリット原典が失われた漢訳仏典に触れたことがある人であれば、即座に理解されるはずです。  かくいう私も、デュッセルドルフで「称名」をテーマにしたシンポジウムが行われた際、世親の『浄土論』(無量寿経優婆提舎願生偈、サンスクリット原典なし、大正蔵1524、菩提流支訳)の一部を、菩提流支の他の翻訳テキスト(チベット語訳もあるもの)との比較から考察しました(その際にも、船山先生の論文に助けられました)。つまり、翻訳者の翻訳の傾向、特定のサンスクリット語(チベット語から想定されるものを含む)にどのような訳語をあてているのか、等を調査することで、朧ながらも失われたサンスクリット原典の姿が見えてこないか、と考えたのです。無謀でした…。しかも当時は、漢訳者たちがどのような状況で、どのようなプロセスで翻訳をしていたのかという点までは、まるで理解が及びませんでした。  そんな過去のことを思い出しながら、GW中、すっかり読み入ってしまいました。

目次

はじめに 第1章 漢訳という世界へのいざない――インド、そして中国へ 第2章 翻訳に従事した人たち――訳経のおおまかな歴史 第3章 訳はこうして作られた――漢訳作成の具体的方法と役割分担 第4章 外国僧の語学力と、鳩摩羅什・玄奘の翻訳論 第5章 偽作経典の出現 第6章 翻訳と偽作のあいだ――経典を“編輯”する 第7章 漢訳が中国語にもたらしたもの 第8章 根源的だからこそ訳せないもの 第9章 仏典漢訳史の意義

潤文に気をつけねば!

 特に興味深いのは、第3章。  ここでは仏典翻訳の流れ作業が細かに記述されています。中でも、サンスクリット原典から、単語レベルで置き換えられた文が、漢文として意味が通るように語順の入れ替えなどの操作がなされること、さらには漢文として読みやすくするための「潤文」(翻訳における加筆・挿入)がなされている、という点でした。  現代の私たちがサンスクリット原典を翻訳する際にも、確かに、加筆・挿入を加えることは多々あります。しかし、原典にない言葉を入れるわけですから、括弧に入れる等の処理をすることで、それが挿入であることを分かるようにしておくのが通例です。  ところが、漢訳仏典の場合には、それは必要な措置として翻訳の一部に堂々と組み込まれているわけです。これを知ってしまうと、漢訳しかないテキストからサンスクリット原典を復元しようなどということが、土台無理な話に思えてきます。が、同時に、その「潤文」の規則が分かれば、原典におそらくなかったであろう語句なども推測できるようになるのかもしれません。

直訳か、意訳か?

 もう一点、非常に興味をそそられた個所を紹介しておきましょう。  『法華経』をはじめとする流麗な訳文で知られる鳩摩羅什は、外国僧としては卓越した翻訳能力(漢文の力)を有していた人でした。その彼をして、インドの韻文を漢文に翻訳することは、「まるでご飯をかんで人に与えると、味が失われるだけではなしに嘔吐を催させるようなものだ」と言わしめています。  二つの言語に通じていた彼だからこそ、二言語間に横たわる溝の深さ、翻訳の不可能性を強く自覚していたということです。そして、そのことが「達意の意訳派」として、後世まで読み継がれるテキストを生み出すことになりました。  その対極に位置する玄奘は「直訳派」の先鋒に立ち、原典に忠実な翻訳を目指したわけです。  二人の翻訳観の違いを、さらに以前にまで遡り、翻訳における「文」と「質」をめぐる論争のポイントがまとめられています。 「もちろん原典に忠実で、かつ、意味が明瞭簡潔で自然にすらすらと頭に入る訳(文質彬彬)が理想であるが、そのような訳を実現するのはきわめて難しい。近い関係にある二言語間の翻訳ならば、両条件を満たすことも可能だろうが、梵語から古典漢語への翻訳のように言語的に隔絶のある場合、とりわけ両条件を備えた翻訳は困難である。その場合、あえて選ぶなら、読みにくくてもとにかく直訳の方がよいか、少々原典から乖離しても全体的意味のわかる、読みやすい訳の方がよいかが、この論争の要点である。」(p. 114f.)  この記述はほんの入り口にすぎません。ここから船山先生は、さらに詳細に鳩摩羅什・玄奘の翻訳観の違いを音訳や翻訳不可能性の視点から論じておられます。けれども、上記の引用個所だけからでも十分に、本書が〈翻訳〉にかかわるすべての人たちに根源的な問題を扱っていることが理解されるのではないでしょうか。 ***  今、『因明入正理論』とその注釈の研究を進めていこうとするとき、本書に出会えたことはありがたい限りです。玄奘の翻訳の現場に思いを馳せながら、せっせとテキストを読む作業(翻訳作業)を進めていかねばなりません。直訳、意訳、というよりそのはるか手前の、「テキストの正確な理解」をまずは目ざしながら…。

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