教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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第16回IABS会議報告(台湾・法鼓仏教学院)

法鼓仏教学院

 世界の仏教研究者が一堂に会する国際仏教学会(IABS)会議に出席してきました。場所は、台湾の北海岸に面する金山の法鼓仏教学院です。6月20日から25日までの五日間にわたり、最新の研究成果がそれぞれの部会で発表されましたが、私が聴講できた範囲で印象に残った発表の幾つかを紹介しておきましょう。

6月21日

Watanabe, Toshikazu (渡辺俊和):How can the existence of the Sāṅkhya’s pradhāna be negated?  現在、ディグナーガの『集量論』第三章ならびにジネーンドラブッディの注釈を研究している同氏の発表は、サーンキャ学派の根本原質(pradhā)の否定論証を考察しつつ、ディグナーガが『因明正理門論』から『集量論』にいたる過程で、主張命題の定義を変更したことが、帰謬論証に与えた影響について論じていました。帰謬論証は、中観派の無自性論証で重要な役割を担うものですが、無自性論証における基体不成立の誤謬を考える上でも、大いに参考になる論考でした。 MacDonald, Anne: The introductory verses of the Mūlamadhyamakakārikā  ナーガールジュナの『中論』冒頭を飾る帰敬偈に関して、特にそこに登場するśivaという語が何を意味するのか、また、そもそも帰敬偈というものが一般に論書の冒頭に置かれるようになるのはいつからなのか、という点が論じられていました。

6月22日

Panel: Forms or Aspects in Buddhist Philosophy and Soteriology of Consciousness (Conventors: S. McClintock & B. Kellner)  ākāraは、一般に「形象」と訳されます。仏教の有形象認識論では、ある対象を知覚する際に、認識内部に形作られる対象像を意味しますが、その背景となる伝統的なアビダルマ教学との関連や、ヨーガ行者の直観や全知者の認識など、解脱論(soteriology)の文脈が考慮される場合に生じる解釈上の問題などは、これまで十分に論じられてきませんでした。このパネルでは、私を含む10名の発表者が、それぞれの研究を披露し、討議を行いました。  さて、仏教における有形象認識論の形成を考える上で、5世紀に活躍したヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』が重要な資料の一つとなります。アビダルマ教学をまとめたこの本の中で、ヴァスバンドゥは、ākāraを、対象を分類化して捉える際のフレームとして考える一方で、経量部的な立場から記述されたと目される第九章においては、外的対象と類似した対象像として捉えています。前者の意味でのākāraは、対象を分節化する能動的な作用をもつものと言えますが、後者の意味でのākāraは、あくまでも対象から与えられる、受動的なものです。B. Kellner氏は、両者の違いを「志向性」(intentionality)という術語を用いながら再考することを提案しました。  V. Eltschinger氏の発表も、アビダルマ的な修道論で言われる四諦十六行相の現観を分析しつつ、それがダルマキールティのヨーガ行者の直観にどのように結びついていくのかを考察したものでした。無常性をはじめとする十六行相の「行相」もまたākāraという単語で表されますが、いわゆる対象像とは異なるものであることは明らかです。ダルマキールティは、ヨーガ行者の直観の対象の一例として「四聖諦」を挙げていますが、その直観は知覚の一種である以上、独自相(個物)を対象とする非概念的なものでなければなりません。しかし、「四聖諦を非概念的に捉える」とはどういうことなのか。これまで研究者を悩ませてきたこの難問に対して、Eltschinger氏は、アビダルマ文献まで遡って再考する必要性を説きました。  S. Margherita, H. Kobayashi, A. Watson, I. Ratie各氏の発表は、大きな文脈で言えば、ダルマキールティの「同時知覚の必然性」(sahopalambhaniyama)に基づく有形象認識論・自己認識論の証明に関わる諸問題を扱ったものと、私は理解しました。小林氏の発表が明瞭にしたように、認識が有形象であることの証明のために、インドでも、錯覚論法・幻覚論法に等しい論法が用いられる場合があります。この場合、錯覚と通常の知覚との間にある種の共通性が証明されなければ、「私たちが直接的に見ている対象はセンス・データである」ことを導くことはできません。小林氏の発表は、プラジュニャーカラグプタの議論を分析しつつ、その共通性の証明には、PV I 242の議論が援用されることを明らかにした点に、大きな価値があったと思います。  また、有形象認識論とセットで語られる自己認識論に関して、その比喩で用いられるprakāśaという単語がもつ意味の揺れ幅(光源か、照明作用か、輝きか)を論じた、Watson氏の発表は興味深いものでした。今後、初期唯識文献なども含めて、同氏の提起した問題を考えてゆく必要がありそうです。  認識が有形象であること・自己認識があることは、同時知覚の必然性に基づいて証明されますが、そのことはそのまま外界否定を含意するものではありません。有形象認識論から唯識に至るまでには、外界否定、特に原子という存在が理論的に成り立たないことを立証する必要があります。つまり、唯識性証明のためには、同時知覚の必然性による証明と原子論批判との二本柱が必要になるわけですが、この二つの柱は本来、別々のものであることに注意が必要です。シャーンタラクシタの『真実綱要』「外界対象の考察」章は、この二つが結びつけられた箇所であり、対論者であるシュッバグプタの認識論的立場を含め、慎重な考察が必要になるところだということが分かりました。  M. Notake氏の考察は、ダルマキールティにおける概念知の発生要因を分析したものですが、ākāraとアポーハという、これまた大きな問題につながるところでもあり、またいずれどこかの学会で集中的に取り上げられるべきテーマであるように思いました。  S. Moriyama, F. Sferra, S. McClintockの各氏の発表は、シャーンタラクシタ以来、先鋭化された瑜伽行派の二分類、形象真実論と形象虚偽論との対立、分類方法、そして全知者論との関係を取り上げたものでした。日本ではすでに梶山雄一氏や沖和史氏などにより論じられてきた問題ではありますが、欧米の研究者たちが自己認識論・形象論の哲学的意義に注目しはじめた今だからこそ、あらためてそれらの業績を再考することは大切でしょう。これらの研究が目指すゴールの一つは、難解で知られるジュニャーナシュリーミトラの『有形象証明論』の解読にあるわけですが、そこに至るまで、実に多くのハードルが越えられなければならないことが、今回、よく分かりました。  ともあれ、形象論研究の問題点を共有できたという意味において、全体として、非常に実り豊かなパネルだったと思います。Kellner, McClintockの両氏に感謝です。

6月23日

Kataoka, Kei: Dignāga, Kumārila and Dharmakīrti on the potential problem of pramāṇa and phala having different obects.  片岡氏がこれまで主として日本語の論文で展開してきた、「PS 1.9には自己認識を認識結果として認める経量部説は無い」という主張を英語で問うたもの。この主張は、「経量部的な有形象認識論は自己認識を含意する」ことを否定するものではない、という点に注意が必要です。有形象認識論にとって自己認識は必然的であるか否か、が今後の問題になりそうです。 Franco, Eli: A Newly Discovered Manuscript of Jitāri’s Works.  タイトル通り、9世紀頃に活躍したジターリの著作の写本が新たに発見された、という衝撃的な内容でした。ジターリという哲学者は、私が研究テーマとしてきたプラジュニャーカラグプタ(8世紀頃)と10-11世紀のジュニャーナシュリーミトラ・ラトナキールティとの間をつなぐ貴重な存在です。今回、報告された写本には、プラジュニャーカラグプタの「未来原因説」(bhāvikāranavāda)との関連が予測されるもの、また、唯識性証明に関わるもの、などが含まれており、解読の成果が公刊されるのが楽しみです。

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