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いいおか しろう

飯岡 詩朗

英米言語文化 教授

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授業関連 英米映像文化演習(2007-) 雑記

いつも明日がある?―--ダグラス・サーク特集における「笑い」

 

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2008年の夏は「ダグラス・サーク特集の夏」として記憶される、というのはいささか大袈裟だとしても、まさか日本でこれだけまとまってダグラス・サークの作品を映画館のスクリーンで(もちろんすべてフィルムで)見られる日が訪れようとは思ってもみなかった。(第30回ぴあフィルムフェティバル「ダグラス・サーク特集〜かなしみのハッピーエンディング〜」) そして、このような機会は少なくとも私が生きているうちには2度とあり得ないだろうと思われたので、かなり(とくに体力的に)無茶なスケジュールではあっ たものの、特集上映の全作品(11作品)を見に行って来た。何より映画館のスクリーンで見られることだけで望外の喜びなのだけれども、その上多くの作品の プリントが非常に良い状態であったのは僥倖であった。(上映は東京会場のみで8月2日まで。)

 

今回の上映作品のうち6本は昨年12月までに日本版DVDが発売されており、それ以前に海外から取り寄せたビデオやDVDも含めると、見るのは何度 目か(とりわけかつて論文「パッシング映画とは何か 「白い黒人」によるアメリカ映画史」『立教アメリカン・スタディーズ』第21号(1999年)で扱った『悲しみは空の彼方』(Imitation of Life, 1959)にいたっては何度見たかしれない)の作品の方が多かったのだが、にもかかわらず、映画館のスクリーンで見られることの歓びとは別にいくつかの映画館のスクリーンで見ることの愉しみがあった。

もちろん、その愉しみ(であり歓び)の1つは作品の細部の輝きに気づけたことである。とりわけ、今回ユニヴァーサル社の火事という不測の事態によって運良くニュープリントで見ることのできた『いつも明日がある』(There's Always Tomorrow, 1956)のラッセル・メティ撮影の白黒の映像は、単に美しいだけでなく終盤では俳優の台詞や演技以上に主人公の感情を饒舌に表現していた。(バーバラ・ スタンウィック演じるノーマの頬に指した勢い良くガラス窓をつたう雨粒の影など。)もう1つは、俳優の演技への印象の変化である。とりわけ、その主人公が 女優を職業とし、それ以外の主要な登場人物すべてにかかわる「演技/模倣」といった主題を持つ『悲しみは空の彼方に』の場合、その変化がより強く感じられ た。具体的には、ラナ・ターナー演じる主人公ローラが、女優を職業として演じる家の外だけでなく、家の内においてすらも常に演技をしているようにどうして も見えてしまうのだ。(サークはあるインタヴューで「ラナ・ターナーが言える最高の台詞は「そんな!」だけなんです。彼女がそのような無だからですよ」と 言っている。ジョン・ハリデイ『サーク・オン・サーク』明石政紀訳, INFASパブリケーションズ, 2006年, 242頁.)

以上のような作品それ自体から得られる歓びや愉しみとは別に、もっとも印象に残ったのは(そして私にとっては意外だったのは)、いくつかの作品のもっとも悲痛な(パトス/ペーソスが最高潮に達する)瞬間に、館内で思いのほか大きな笑いが起こったことだ。

その瞬間は、たとえば、サークによる最後のハリウッド映画であり、最後の長篇作品である『悲しみは空の彼方に』 の終盤での、白人の母ローラ(ラナ・ターナー)と娘のスージー(サンドラ・ディー)口論の場面にある。ローラは、自分がこれから結婚しようというスティー ヴ(ジョン・ギャビン)に娘も真剣に恋をしていることを黒人の(事実上の)「メイド」であるアニー(ファニタ・ムーア)に聞かされ取り乱し、それが事実か どうかを娘に問いただそうとするが、逆に娘からいつも自分の相手をしてくれたのはアニーだったと責められ、ついには次のように口にする。(以下、日本語の 台詞は拙訳。)[1]

 

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「スティーヴのことであなたともめるくらいなら、彼と別れるわ。彼には二度と会わない」(If Steve is going to come between us, I'll give him up. I'll never see him again.


しかし、娘はすぐにこう切り返す。

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「ママ、演技は止めて!」(Oh, Mama, stop acting!)


さらに続けてこう言う。

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「もういいわ。私がスティーヴをあきらめるから。だからお願い、犠牲者ぶらないで!」(Don't worry, I'll get over Steve, but please, don't play the martyr!)


この「ママ、演技は止めて!」という台詞(ただし実際に字幕として投影された台詞がこのとおりだったかは残念ながら憶えていない)の瞬間に、より精確には、その台詞が字幕として投影された瞬間に、館内には思いのほか大きな笑いが起こったのだ。

またたとえば、今回の特集上映でのもっとも注目作である(というのは現在世界中どこでもビデオ/DVDが入手できないからだが)『いつも明日があ る』のエンディングにそうした瞬間がある。玩具メーカーの経営者である父親(フレッド・マクマレイ)が、かつての同僚で、いまはNYで活躍しているデザイ ナーであるノーマ(バーバラ・スタンウィック)と不倫関係に陥っていると信じ込んだ長男ヴィニーと長女アン。二人は父親と分かれてくれるよう頼みにノーマ に会いに行き彼女を非難しようするが、逆に、仮にあなたたちの父親であるクリフとわたしの間に何かが起こったとしても(実際にはその一歩手前だったのだ が)それはあなたたち家族のクリフに対する愛情や思いやりが足りなすぎたからだ、ときつく叱責される。(ついでながらこの場面でのスタンウィックの凄みに はゾクゾクさせられる。)この後、ノーマから永遠の別れを告げられ途方に暮れて帰宅する父親を、これまでの自分達の態度を反省したヴィニーとアンが迎える のだが、ヴィニーは呑気にも次のように父親に声をかけるのだ。(以下、日本語の台詞は拙訳。)

ヴィニー:「おかえり、父さん」"Hello, Dad."
クリフ:「ただいま、ヴィニー」"Hello, Vinnie."
ヴィニー:「気分はどう?」"How are you feeling?"

この「気分はどう?」という台詞(やはり実際に字幕として投影された台詞は一字も違わずこのとおりだったかは憶えていない)の瞬間に、やはりより精確には、その台詞が字幕として投影された瞬間にも、館内には思いのほか大きな笑いが起こった。

こうした「大きな笑い」は私にとってはかなりの驚きであった。もちろん、サーク作品におけるもっとも悲痛な瞬間が、同時に、卓越した演出による対象 の「距離化(distanciation)」によって、もっとも滑稽な瞬間であるのもたしかではある。しかし、その「滑稽さ」は「笑い」として発散される ようなものであるよりむしろ「悲痛さ」をいっそう高めるものではないのか。この2つ場面についてサークがどう考えていたかは、たとえば前掲の『サーク・オ ン・サーク』にも見当たらないのだが、サークが観客を笑わそうとしていたわけではないのは確かだろう。もちろん、あらゆる観客に登場人物と共に涙を流させ ようとしていなかったのも確かだろうが。(もちろん、監督の意図が何より優先されるべきである、と言いたいわけでは毛頭ない。)

部分的には、バーバラ・クリンガーの言う「マス・キャンプ」によってこうした「笑い」は説明可能だろう。[2](実際、そこでの笑いは、かつての 『スチュワーデス物語』や『スクールウォーズ』に対する、そして最近では『真珠夫人』や『牡丹と薔薇』に対する「笑い」をすぐにも思い起こさせもし た。[3])また、俳優の発する台詞を聞き取る/感じるのではなく、台詞を文字=字幕として見てしまう(これも別種の「距離化」にほかならないが)ことも こうした「笑い」を誘引する要因として考えられるだろう。けれども、いちばんは、映画の物語世界への没入の、登場人物への感情移入の弱さではなかったか?  また、言い換えるなら、それは「メロドラマ的想像力の欠如」ではなかったか?[4] いずれにしても、そうしたあるいはサークを評するときに頻繁に用い られる「アイロニー」の観客による認識と混同されかねないこうした「笑い」によっては、サークによるメロドラマの(サーク自身の意図すら超えた)破壊的な ポテンシャルをじゅうぶんに汲み取ることができないのは間違いないだろう。

もっとも一方で、今年度のゼミ(英米映像文化演習)は(三たび?)サークを中心にメロドラマを扱っているため、実際の学生たちの反応から、こうした (スタイル上の卓越性を評価しながらの、シニカルな、というよりは、嬉々とした)「笑い」による受容が一般化しつつあるのではないか、という予感があるの も事実である。そうした「笑い」だけでは到底汲み取ることのできないメロドラマの(底無しの?)ポテンシャルにどこまで迫れるかが後期のゼミの課題になっ ていきそうである。

* * *


[1] すべての図版は、筆者が研究目的で作成した。
[2] Barbara Klinger, "Mass Camp and Old Hollywood Melodrama and Today," Melodrama and Meaning: History, Culture and the Films of Douglas Sirk, Indiana University Press, 1994 を参照。
[3] 藤井仁子「デジタル・メディア時代の映画受容 ビデオ・DVDは映画の見方をどう変えたか?」『InterCommunication』No. 57 (2006) も参照。
[4] 長谷正人「20世紀の映像文化ーー「エジソン的回帰」をめぐって」『映画学』第16号(2002年)を参照。

【追記】今回『いつも明日がある』を見ていて、終盤のノーマがクリフの会社に別れを告げに行くシー ンで画面手前に配されたクリフ自慢の新製品のロボットが画面左下に向かって動き出したとき、あぁ次はあのショットだ、と思い出したのがダニエル・シュミッ トの『人生の幻影』で引用されたロボットがテーブルから床におちるショットなのだけれど、そのショットが今回のプリント(冒頭の検閲局の承認を示す画面か らイギリスで公開版とわかる)には含まれていなかった。(もっともそれ以前に私が見ていたものにもこのショットはふくまれていなかったのだけれども。) 『人生の幻影』は一度しか見たことがなかったので、それこそどこかで読んだものから勝手に思い描いた「幻影」のショットだったのだろうかと思っていたら、 今回のPFFの公式カタログにサーク作品の解説を寄稿している大久保清朗さんのブログ「Some Came Running」 に腑に落ちる「追加解説」があった。曰く、インタヴューなどからもロボットが床に落ちるショットを含む別ヴァージョンが存在するのではなく公開時にはその ショットはカットされており、『人生の幻影』がどこかから発掘してきたそのショットを含めたのではないか、ということである。

ついでながら、付記すると、今回上映された『心のともしび』も日本版DVD(2:1)とは異なり、アスペクト比は(ほぼ)スタンダードだった。この作品のアスペクト比には諸説あるようで、日本版よりも先に発売されたイギリス版のDVD(やはり2:1)をめぐっても、Amzon.co.ukのカスタマー・レヴューで論争、というよりもユニヴァーサルへの痛烈な非難があった。果たして2つヴァージョンが存在するのか? それともこれらのDVDは見事な(?)上下のトリミングによるものなのか? (2:1のアスペクト比はおそらくは上下のトリミングによるものなのだろう。)

【追記 2】本文で『いつも明日がある』は「現在世界中どこでもビデオ/DVDが入手できない」と書いたが、調べたら、ドイツでは、『わが望みのすべて』(All I Desire, 1953)、『間奏曲』(Interlude, 1956)とともに Douglas Sirk Collection として2008年2月に発売されていた。

【追記 3】『心のともしび』のアスペクト比問題については、映画の國 フォーラムによりややこしい議論へのリンクがあったのを思い出した。ただ、私見では、2.0のアスペクト比は致命的ではないと思う。

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