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いいおか しろう

飯岡 詩朗

英米文学 准教授

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雑記

『美しい国へ』とアメリカ映画

 

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 自民党の次期総裁に間違いないと言われている安倍晋三官房長官の著書『美しい国へ』(文春新書,2006年) がベストセラーだという。

 

 もともと流行りものが気になってしまうたちではあるのだが、読まずにも書いてあることは容易に想像できるこの本を手に取るつもりはなかった。けれども、『AERA』の記事「安倍晋三のベストセラー 『美しい国へ』の「本当の著者」 」(2006年8月14-21日号) に、「安倍氏は映画好きを公言するだけあって、本には米国映画の話が数カ所出てくる」(25頁) という一節があり、それがどうしても気になってしまったのだ。

 

 「映画好きを公言する」政治家によって書かれたこの本には、『ターミナル』(2004) 『ゴッド・ファーザー』(1972) 『ミリオンダラー・ベイビー』(2004) 『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005) への言及がある。あきらかに格の違う作品も含まれているのでその鑑識眼を疑いたくはなるのだが、自身の政治姿勢を表明している(らしい)本であるため、そ の点は問わずに措くとしても、実際に読んでみると「映画好き」ということすら疑わざるをえない。それはどういうことか。

 

 たとえば、『ターミナル』への言及がある箇所をみてみよう。この作品は第2章「自立する国家」の中の「国家はわたしたちに何をしてくれるのか」という見出しの節で言及される。その部分を含む前後の記述は以下の通りである。

 

外国旅行でわたしたちが携帯を義務づけられているパスポートには、外務大臣の署名で、
「日本国民である本旅券の所持人を通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」
との文言が明記されている。
 これは、所持者であるあなたが、日本人であることを、日本国家が証明し、外国における権利を日本国家が担保するという意味である。いうまでもなく、そこでは、どこの国に属しているかということがきわめて重要な意味をもつ。わたしたちは、国家を離れて無国籍には存在できないのだ。
 トム・ハンクスが主演した「ターミナル」という映画があった。主人公が飛行機でアメリカに向かっている間に、東欧の祖国でクーデターが起こり、パスポー トが無効になってしまう。かれは、JFK空港に到着したものの、入国はできず、かといって自分の国に戻ることもできず、空港に閉じこめられてしまった。無国籍のかれは、移動の自由を奪われてしまうという話だ。
 国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある。(63-64頁)

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 一読してわかるように、『ターミナル』への言及のある段落がなくとも話は通じる。むしろその段落があるせいで文意が取りづらくなってすらいる。

 

 上の引用箇所の大意は、要するに「国家は国民を保護しているのだから、国民は(国家に対して)義務を果たさなければならない」ということだろう。そうだとすれば、ここで言及されている『ターミナル』もそのようなことを語る映画でなければならないはずだ。

 

 しかし、『ターミナル』を見た者であれば誰でもわかることだが、『ターミナル』は断じてそのような映画ではない。けっして単純ではない映画だが、一見し てあきらかなように、「国家は国民を保護しているのだから、国民は(国家に対して)義務を果たさなければならない」というようなことは一切語られてはおら ず、むしろ国家が消滅し(よって国家は国民を保護することはできない)、国籍が失われた状況(つまりもはや国民ではない)で一人の男(トム・ハンクス)が サヴァイヴする姿がそこでは描かれているのである。だから、どのように考えてもこのコンテクストで『ターミナル』に言及するのは不適切なのである。

 

 にもかかわらず、上述の『AERA』の記事では、『美しい国へ』の「ゴーストライター」とも噂される(本人は否定している)八木秀次高崎経済大学教授の言葉も引きながら、『ターミナル』を見てさえいればありえないはずなのだが、この本でのアメリカ映画への言及(記事文中では「引用」)を次のようにどういうわけか肯定的に評価している。


安倍氏は映画好きを公言するだけあって、本には米国映画の話が数カ所出てくる。「ターミナル」で主演のトム・ハンクスが、パスポートが無効になって空港に閉じこめられるのを引き合いに出し、
「国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある」
という具合だ。
 八木さんの分析によれば、日本語独特の言い回しをするより、米国民にも分かりやすい映画を「引用」することで、自身の考えを伝える。本の一部が翻訳された際も意味が通じやすい、そんな工夫が施されているという。(25頁)

 

 『美しい国へ』の翻訳が出版されるようなことはありえないが(もしされれば著者にとって確実にマイナスである)、なるほど、その一部が翻訳されたり 要約されてアメリカの新聞や雑誌で紹介されることはあるかもしれない。しかし、その際に運悪く上の引用箇所が訳されれば、「意味が通じやすい」どころか、 著者は論理的な文章が書けない、映画がわからない、と見なされてしまうに違いない。

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 同じようなことは、『ミリオンダラー・ベイビー』への言及のある箇所(第3章「ナショナリズムとはなにか」の中の「「ミリオンダラー・ベイビー」が訴える帰属の意味」という見出しの節)にもあてはまる。

 

 『美しい国へ』の著者によれば、この作品の「背後には「アイルランド系というアイデンティティへの帰属」「カトリックという宗教への帰属」、そして「家 族への帰属」という、じつに重たいテーマが横たわっている」(88頁) という。そして「誰にとっても感動的な作品に仕上がっているが、とりわけアイルランドへの帰属意識という点に注目して作品を見直すと感慨深い」(90頁) と述べた後で著者は、『評伝北一輝』などで知られる評論家の松本健一による「イーストウッドがこの映画をとおして描こうとしたのはアメリカのナショナル・ アイデンティティである」(同前) という評を引く。もちろんエスニシティの観点から『ミリオンダラー・ベイビー』を見直すことの意義は否定しないが、しかし、この傑作が描いているのはむし ろそのような一連のものへの「帰属」の「不可能性」だろう。

 

 言及のある章全体からみれば、著者は、「エスニック・アイデンティティへの帰属」「宗教への帰属」「家族への帰属」を「ナショナル・アイデンティティ」 に接続し(もちろん短絡である)、さらにはそこから「ナショナリズム」(ほぼ「愛国心」と同義語として用いられている)の重要性=必要性へと議論(もし 「議論」と呼べるのであればだが)を進めており、そうしたコンテクストでの『ミリオンダラー・ベイビー』への言及はやはり不適切というほかない。(この本で言及されて不適切ではない映画は『男たちの大和/YAMATO』(2005) や『日本沈没』(2006) のようないわば「特攻隊映画」[*1] である。)

 

 結局のところ、『美しい国へ』の著者は、『AERA』の記事が言うように翻訳を意識してであれ他の何であれ、映画をただ利用しているに過ぎないのである。もちろん政治を語るときに映画を利用すべきではないなどと堅苦しいことを言いたいのではない。そうではなく、しかるべき政治的地位にあり「映画好き」 を「公言」する以上は、映画を不適切に利用すべきではないと言いたいのである。困ったことだが、次期総理と目されているこの著者もまた現総理と同様に、映画への「畏れ」を決定的に欠いてしまっているのだ。[*2]

 

 もちろん、『美しい国へ』の「不適切」さはアメリカ映画への言及のある箇所ばかりではない。著者の政治姿勢とも繋がっているであろう歴史認識の問題を棚上げしたとしても、ところどころに単純化と短絡があり、とても論理的な議論(仮に「議論」と呼べるのならばだが)がされているとは言い難い。一部では「読 みやすい」「わかりやすい」などとも評されているようだが、むしろ真面目に読もうとすればするほど「読みづらい」「わかりづらい」本にほかならないのである。

 

* * *

 

*1. 「特攻隊映画」については中村秀之による優れた分析がある。(「特攻隊表象論」『岩波講座アジア・太平洋戦争5 戦場の諸相』(岩波書店,2006年) および「儀礼としての特攻映画 『男たちの大和/YAMATO』の場合」『季刊 前夜』7号 (2006年4月))
*2. 現総理および現アメリカ大統領の映画への「畏れ」の欠如については、たとえば、蓮實重彦「暗澹たる思いはつのるばかりです—―フィルム・スタディーズと大統領」『UP』2005年1月号を参照。

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