教員紹介

はやさか としひろ

早坂 俊廣

哲学・芸術論 教授

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中国関係

江西調査報告(4)南昌・廬山

聖母無染原罪堂(南昌)

「江西調査報告」は、今回でお終いにします。基本的な情報をこれまで抜かしていましたが、懐玉山に行った(「報告1」)のが9月10日、貴渓・金渓が11日(「報告2・3」)でした。ここまで読んでくださった方はお分かりの通り、どんどん予定が押してしまいました。本来前日に見ておく予定だった撫州市内のあれこれを12日の朝に見て回り(「報告3」末尾)、バスは一路、南昌に向かいました。南昌は江西省の省都で、15年ほど前に立ち寄ったことがあります。ただ、その頃とは大きく異なり、高速道路が(こんなには要らないだろうと思うぐらい)整備されていますので、実に順調に南昌まではたどり着きました。ただ、市内に入ってからがお約束の「道路工事」と「渋滞」に悩まされ、南昌を案内してくださる現地の先生を一時間も待たせて、やっと到着しました。

白鹿洞書院門

苦労して到着した南昌でしたが、古い建物はあまり残っていないようで、「東湖書院」も「南昌貢院」も、地名にのみその面影を残しているということを確認しただけで終わりました。その中で、老貢院街近くの天主教堂は、古い趣きのある建物でしたが、「非公開」とのことで、外から写真を撮ることしかできませんでした。ついでに、その前に停まっていたポルシェもこっそり撮っていたところ、通りかかったおばさんが「こっちにも教会があるよ!」と案内してくれました。そちらは、非常に大きく、また現在も活用されている教会(「聖母無染原罪堂」)でした。教会の庭には、マテオ・リッチ(利瑪竇、1552~1610)の像が立っていました。さすが、南昌はリッチゆかりの地だけあります。南昌で一番感動したのは、この像でして、豫章書院跡地も現在は南昌第十八中学であり、卓球に興じている生徒さんの間を縫って、説明書きを写真に収めるだけで終わりました。

愛蓮池(九江市星子県)

ところで、南昌での昼食の際、中国の先生方と運転手さんが盛んに議論を始めました。と言いますか、運転手さんが盛んに「この調子だと、13日の深夜になっても杭州に戻れるかどうか分からんぞ!」と脅し始めたのです。もちろん、南昌でも予定通りに話が(車が)進みませんでしたので、その日(12日)のうちに行く予定だった「白鹿洞書院」を、翌日に廻さざるを得なくなった、というのは、覚悟していました。同時に、そのために、杭州に戻る途中で寄るつもりだった「婺源」という街(朱熹ゆかりの地)は断念せざるを得ない、というのも分かります。でも、運転手さんによれば、予定通りに九江市街地のホテルに泊まると、とんでもない事態になるぞと脅すのです。運転手さんがそこまで言うならと、今回の旅行で2度目のホテル替えとなり、九江市街地よりも手前にあり、「白鹿洞書院」にも近い星子県にホテルを予約し直す(してもらう)ことになりました。転んでもただでは起きない我々は、「星子県と言えば、周敦頤だよね!」ということで、彼ゆかりの「愛蓮池」を訪ねてから、星子県のホテルに投宿しました。

廬山

周敦頤(1017~1073)は、北宋の儒学者であり、彼の著した「太極図説」は、その後の思想史の展開に多大な影響を与えました。もっとも、こういう説明よりは、漢文の教科書に載っている(ことの多い)「愛蓮説」の作者と言ったほうが通りがよいかも知れません。四半世紀以上も前、大学の附属高校で教育実習を行った際、授業でこの「愛蓮説」を取り扱ったことがあります。自分の卒論のテーマが周敦頤の思想だったからですが、当時の指導教官が授業参観にお越しになり、緊張で気を失いそうになったことを思い出して、じーんと来ました。翌日の朝イチには廬山の麓にある「白鹿洞書院」にも行き、さらにじーんと来ました。廬山出立後はすぐに高速道路に乗り、婺源・黄山の横を通って杭州にたどり着きました。運転手さんが脅した「深夜着」にはならず、夕方5時には着きました。とにかく早く帰りたくなった運転手さんが大げさに言って我々を急かしたのだろう、と思います。ただ、何にせよ彼の安全運転の御陰で無事に調査を終えることができました。感謝です。

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