医局紹介

信州大学医学部精神医学教室の特色、関連病院との連携、年間行事、そして教室の沿革をご紹介します。

臨床

長野県における唯一の大学病院として、充実した精神医療を患者さんに提供できるよう尽力しています。 精神科一般臨床のほかに専門外来として「子どものこころ診療部」「周産期のこころの外来」などがあり、 小児精神医学から老年精神医学まで幅広い疾患を対象として臨床・研究活動を進めています。

さらに公認心理師が心理検査、心理療法等の活動をしています。 また当教室専属の作業療法士2名がおり、患者さんの職場復帰に向けてリワークプログラムを 展開していることも特徴です。

病棟では、初期研修医と後期研修医に患者さんごとに指導医がつき、密な指導を受けながら 安全に治療を進めていきます。

病棟カンファレンスの様子

関連病院との連携

県内を中心に、国公立・民間の総合病院や精神科病院など多数の病院と協力、相互交流しています。 主な関連病院は以下のとおりです(他にも多くの民間精神科病院と連携しています)。

  • 長野赤十字病院
  • 諏訪赤十字病院
  • 北アルプス医療センターあづみ病院
  • 篠ノ井総合病院
  • 北信総合病院
  • 松代総合病院
  • 県立木曽病院
  • 県立こころの医療センター駒ヶ根
  • 国立病院機構小諸高原病院

教室の年間行事

4月 新入局員歓迎会

5月 同門会

定例総会および懇親会。

6月 中信精神科医会

中信地区の先生やその他県内の先生方が集まり、講演会などが催されます。

7月 学校登山の付き添い

教室の有志の先生が県内の中学校の学校登山に付き添います。

10月 信州精神神経学会

県内の病院を中心にさまざまな報告がなされ、活発な議論が繰り広げられます。

11月 医局旅行

医局、病棟、外来スタッフで旅行に行きます。

最近の行先:蓼科温泉郷、山田温泉、別所温泉(上田)、下諏訪温泉、中棚温泉(小諸)、大湯温泉(新潟)、湯田中温泉、昼神温泉、石和温泉、大町温泉郷

12月 忘年会

全国からも多数の医局関係者が集まり1年間の慰労をします。

3月 送別会

来る人もいれば、門出を迎える人もいます。送別会も盛大に催されます。

上記のほかに、学会、症例検討会、研究プログレス報告会、講演会、勉強会なども開催されています。

教室の沿革

当教室は、初代・西丸四方教授以来、原田憲一教授、融道男教授、吉松和哉教授、天野直二教授、 そして鷲塚伸介教授へと引き継がれ、現在に至っています。

西丸教授時代(昭和24年〜44年)— 教室の創設と空白期

西丸教授時代の歩みに関しては、信州大学医学部25年史に、西丸教授ご自身によって執筆が なされており、以下はその要旨を抜粋したものです。

昭和24年ご赴任当時、外来や病室はおろか、顕微鏡一台、本一冊もなく、まさに 「花のお江戸からボルネオの山奥へ来たような」心境であられたといいます。 それだけに、診療場所や機材の確保、スタッフ、さらには患者集めに至るまで、 創設期のご苦労はひとかたならぬものでした。 しかし、労をいとわれることもなく、前任の東京女子医大の弟子たちや市中病院の協力を 得られつつ、昭和31年には新海助教授(慶大)が、さらに昭和35年には水島講師(松本医専)が 就任。次第に教室としての陣容が整えられてゆきます。

教授ご自身は、精神病理学(病的心理学)を専攻され、この分野における我が国での 指導的立場におられました。当時から訳・著書も多く、とりわけヤスパースの精神病理学総論 (岩波)及びクレッチマーの医学的心理学(みすず)の翻訳や、周知の医学生向け教科書 『精神医学入門』(南山堂)等は、今日に至るまでその需要が絶えません。 一方、教授の闊達でリベラルなお人柄は、そのまま教室の雰囲気へとも反映されていたようです。 学問を遊びとみる時におもしろいものが出るという持論から、講座の研究テーマも各自の 自主性にまかせられるという風でした。

その後、全国的に波及した大学紛争の渦中にあって、昭和44年西丸教授が退任。 以後、しばらく教授不在期を余儀なくされます。この間、当教室では医局講座制にもとづく 旧体制を解体し、新たに教室会議が結成されました。教室員各自の主体的参加と責任を前提に、 人事の公募と互選による民主的運営をその骨子とするものでした。

原田教授時代(昭和47年〜59年)

自らも東大紛争を通過されてきた原田憲一教授が昭和47年に就任。 教授は管理者としての責任上、人事上の拒否権のみを要請され、それ以外は教室会議規約を 尊重するという態度で臨まれました。研究領域にあっては、教授のご専門の脳組織病理学のほか、 精神病理学、精神生理学、精神薬理学に大別され、後三者については各々、新海助教授、 田中講師、小片(寛)講師の指導のもとに地道な取り組みがなされました。

原田教授は、西丸教授以来のリベラルな伝統を継承されつつ、一方で研究至上主義の弊害をも 熟知されており、臨床家としての在り方を最重視する姿勢を堅持され、自らの後ろ姿で講座員を 導くという態度で一貫されました。教育面では、講座会議から委嘱される型での教育委員会が 設けられ、講師以上の三役を中心メンバーとして各々が役割分担しつつ臨むことになりました。

入局者の動向は、平均すると毎年数人前後で、入局後の研修や進路は、基本的な訓練と知識の 習得以外、すべて自己決定に委ねられていました。多くは数年内に第一線現場へと出向く傾向に ありましたが、その際も当人と病院側との個人交渉が原則でした。

昭和55年、新海助教授が退官。やがてこの間の歩みの成果のひとつは、教育スタッフの共著による 『医心理学』(朝倉書店)の発刊へと結実します。また昭和56年、信州精神科医会を母体に 信州精神神経学会が再発足し、今日に至っています。

融教授時代(昭和60年〜平成元年頃)

昭和59年、原田教授が母校東大の教授へと転任。代わって、昭和60年、融道男教授 (精神薬理学専攻)が着任。従来の教室の流れを基本的に引き継いでいただくと共に、 教育スタッフも、小片(寛)助教授、湯沢講師(記述精神病理学)、巽講師 (力動精神病理学)へと交代していきます。

着任後、さっそく導入された新しい形態として、既に東京医歯大で実施されてきた病棟 カンファレンスがあります。毎火曜の午前半日、講座全員及びコメディカルスタッフや 実習学生参加のもと、入院患者について各主治医が順次経過報告し、教授面接後、全員で 討論するという形式のものです。情報の交換や共有という点で貴重な場となりました。 また、教室の将来を踏まえ、関連病院での研修方式の実施へと向かい出します。

講座運営の在り方も、この時代的変遷に応じ、教育委員会に医局長、外来医長、病棟医長の 参加を得て、ここが次第に運営委員会的な機能を担うようになっていきました。 残念なことに、融教授も約4年半の在任後、東京医歯大教授へと転任されてゆきます。

吉松教授時代(平成2年〜12年)

平成2年、吉松和哉教授が着任。その際、教室の今後の研究臨床活動の展望として、 精神障害に対する「生物・心理・社会」という3つの次元からの接近と、その結合の必要性とが 説かれました。生物学的次元の担当を小片助教授に委ねられつつ、教授ご自身は心理・社会的 次元に関する指導者としての立場に立たれました。

学術面では平成4年の春に第12回社会精神医学会の主管を成功させ、教室運営面では、 講座規約改正がありました。臨床活動では、児童思春期外来の新設、院内のリエゾン・ コンサルテーション精神医療活動の充実という進歩がありました。

教育活動においては、6年一貫教育の導入に応じて、医心理学、臨床医学入門、統合講義、 自主研究、臨床実習、臨床演習と題された講義もしくは実習を卒前に行うことによって 精神医学の本質の伝授を目指すと共に、卒後研修でのスーパーローテート方式の導入への 対応も考慮し、他科部分ローテーションが採用されました。

在任中の大きな出来事として平成9年8月の病棟の移転が挙げられます。旧病棟の南1階から、 新病棟の西3階(当時の武藤病棟医長が設計)へ。移転当初、患者さんからは「ホテルのように 綺麗だ」とも言われた新病棟は、旧病棟と同じ40床で開放病棟でしたが、病室は6人部屋から 4人部屋になり、差額の個室も作られました。新たに保護室が設置され、夜間には施錠がされる ことになりました。

吉松教授は、平成12年に、惜しまれつつも定年退職されました。

天野教授時代(平成12年〜27年)

平成12年8月、天野直二教授が就任。着任後まもなく、天野教授は長野県内関連病院をくまなく 回られました。地域の第一線で奮闘する医療機関との連携を深め、県内精神医療のさらなる 向上を目指してのことです。研究領域にあっては、ご専門の神経病理学の研究を開始されました。

平成13年、天野教授は「もの忘れ外来」を立ち上げられました。 また、翌年には児童精神医学を専門とする診療部門としては全国の国立大学で初めてとなる、 「子どものこころ診療部」を開設したことで、精神医学教室の体制はきわめて充実したものと なりました。

平成16年には、第19回日本老年精神医学会を開催。シンポジウムでは「老年期の妄想」を メインテーマに据え、天野教授ならではの切り口が随所に見られ、非常に意義深い学会となりました。 平成18年には第24回日本青年期精神療法学会を、平成25年には第32回日本認知症学会を 「認知症研究の英知と臨床の実践」をテーマに開催。教室が主体となって開催した学会としては 過去最大の規模のものとなりました。

新潟県中越地震、東日本大震災後の精神医療支援として、当教室から「こころのケアチーム」を 派遣。新潟県中越地震では、天野教授自らが十日町の被災地に出発され、事あらば教授自ら 先頭に立って陣頭指揮を執る普段の姿勢そのままでした。平成23年には第31回日本精神科診断学会を 開催し、「震災における精神科からの支援」を特別報告に盛り込みました。

同年から平成26年まで病院長を務められた後、教授として最後の1年間、教室の臨床、教育、 研究すべてのレベルアップに精力的に取り組まれ、平成27年3月末に、惜しまれつつも退官されました。