比較文学への招待―カルメン幻想(渋谷)

<比較文学する>とは、簡単に言えば、枠にとらわれずに文学を考察することです。つまり<国境>という枠にとらわれずに様々な国家・言語を視野に入れ、 各国の文学間の共通性や関係を明らかにしようとすることです。さらに、<文学>という枠の内部にも留まらず、むしろ文学と文学以外の様々な芸術(絵画、音 楽、映画など)との関係を積極的に探ることでもあります。そうすることによって、従来の文学研究が看過してきた重要な問題を視界に浮上させ、人間の表象の 歴史を大胆に読み替えていくことを目指しています。
とは言っても、「各国の文学間の関係」とか「文学と文学以外の諸芸術との関係」とか、ちょっと抽象的な感じで、具体的なイメージが湧かないかもしれませ んね。そこで、以下に、文学のダイナミズム――国境を越え、諸芸術と密接に関わりながら展開していく文学のダイナミズム――の事例を一つご紹介したいと思 います。
ここはやはり皆さんに親しみやすいお話がいいでしょうから、できるだけ有名な作品を例に取ろう、ということで、何がいいかと考えた末、「カルメン」の話 をすることにします。19世紀のフランス人作家メリメが書いたあの「カルメン」です。ドン・ホセというウブな男が、ジプシー女・カルメンのとりこになり、 身を持ち崩して盗賊になる、そして残虐な犯罪を繰り返した挙げ句、最後にはカルメンをナイフで刺し殺してしまう、というあの小説ですね。まったくもって <どす黒い>お話です。舞台はスペインのアンダルシア地方。すべてを焼き尽くす南欧の太陽のもとで起こった<どす黒い>お話なのです。それにしても、な ぜ、スペインだったのでしょうか? 作者メリメがこの悲劇の舞台にスペインを選んだのは、たんなる思いつきだったのでしょうか? 素朴な、とはいえ、あなどれない疑問です。
ここにレオン・フランソワ・ホフマンという人の「ロマンチックなスペイン」という本があります。19世紀前半のフランスで、スペインという国がどのよう に表象されていたかを論じた研究書で、なかなか面白い本なのですが(残念ながら邦訳はありません)、この本によれば、どうやら「カルメン」の舞台がスペイ ンであることは決して作者メリメの独創や思いつきに帰せられることではないようです。と言うのも、この研究書は、19世紀前半のフランスが一種のスペイ ン・ブームに沸いていたことを明らかにしているのです。もちろん、ブーム到来には政治的状況をはじめとして様々な要因があったわけで、それをここで詳述す ることはできませんが、せめて、ちょっと面白いエピソードを一つだけでもご紹介しておきますと、スペインから亡命してきたミュージシャンたちが哀愁漂うス ペイン音楽をカフェや劇場で演奏し、フランス人聴衆を魅了した、ということもブームの到来に一役買ったそうです。(それがどんな音楽だったのか、実際にお 聴きになりたければ、人文棟三階の渋谷の研究室までお越しください。)ともあれ、こうして盛り上がったスペイン・ブームはやがて文学の世界にも波及しま す。では、その当時、文学の世界でどんな小説が流行っていたかと言えば、これはやはり「暗黒小説」です。(人間の非理性的かつ嗜虐的な側面をクローズアッ プした小説ですね。)この流行の発信源はイギリスで、英国人作家ルイスの暗黒小説「マンク」が仏訳されて大評判を呼んで以来、フランスでは暗黒小説が流 行っていたのです。その流行に、上述のスペイン・ブームが流れこむわけですね。その結果、フランスで、スペインを舞台にした暗黒小説がたくさん書かれるよ うになります。「カルメン」という、<スペイン>を舞台にした<どす黒い>小説も、こうした流れの中に位置づけることができるようです。つまり、この名だ たる傑作の背景には、複数の国家間の交流がある、ということです。
ところで、皆さん、先刻ご承知かと思いますが、この「カルメン」は後に音楽家ビゼーによってオペラ化され、世界的に大ヒットしましたよね。まさに<文学 と音楽の幸福な結婚>です。見方を変えれば、文学が音楽に大きく寄与したのだと言うこともできるでしょう。それが、やがて、文学の世界に跳ね返ってきま す。19世紀後半に、オペラ「カルメン」が文学にとっての重要問題として浮上してくるのです。そう、ニーチェの登場とともに。
ニーチェの名はおそらく皆さんもご承知でしょう。ドイツの偉大な哲学者・思想家・作家ですよね。かなり変わった人だったようですが、それはともかく、 ニーチェはビゼーのオペラ「カルメン」をこよなく愛し、それを自国の作曲家ワグナーの音楽と対比しながら、自分の芸術観・世界観を練り上げていきました。 いわば、音楽から文学へフィードバックがなされたわけです。そして、このニーチェの思想が、さらに後世の作家や音楽家に多大な影響を与えていくことになり ます。まったく、文学というのは、国境を、また、ときには文学という領域をも越えながら、ダイナミックに展開していくものなのですね。
さて、では、日本の文学はどうなっているのでしょうか? もちろん、私たちの国がこうした文学・芸術の流れに無関係でいるはずもありません。実際、メリ メ原作、ビゼー作曲のオペラ「カルメン」は日本でも早くから上演されています。たとえば大正時代にはロシアの歌劇団が東京の帝国劇場で「カルメン」を上演 しました。おそらく多くの日本人観客を熱狂させたことでしょう。実は、その中に一人の才能ある若い作家がいたのですが、ご存じでしょうか? 芥川です。皆 さんもよくご存じの芥川龍之介。彼はその上演に刺激を受けて、「カルメン」と題する佳品をものしているのです。これを要するに、フランスにおけるスペイ ン・ブームと(イギリス伝来の)暗黒小説ブームの結節点に生まれた小説「カルメン」が、音楽家ビゼーによってオペラ化され、ロシアの歌劇団によって帝国劇 場で上演されたとき、一人の日本人作家の創作意欲が掻き立てられた、ということです。まさにダイナミックな文学の展開ですね。さらに、芥川には他にも「カ ルメン」と血縁関係にある作品があります。有名な「羅生門」(皆さんもおそらくご存知でしょう)のいわば<続編>にあたる「偸盗」という小説がそれです。 この小説は、明らかにメリメの「カルメン」を下敷きにして書かれた小説なのです。もう少し正確に言えば、芥川の偏愛した「今昔物語」と「カルメン」とを ドッキングさせた小説だ、ということになります。言ってみれば、日本の古典作品と西洋近代文学の混血児ですね。そして、この系譜は今日にも受け継がれてい ます。現代の演劇人・野田秀樹が、メリメの「カルメン」と芥川の「偸盗」を下敷きにして「カノン」という戯曲を書いているのです。(実は、私は「カノン」 の舞台は観ていないのですが、鈴木京香がヒロインを演じたそうです。)今日では芥川文学は西洋の諸国語に翻訳されていますから(たとえば、去年、村上春樹 の序文を付した英語版「芥川龍之介短編集」Rashomon and Seventeen Other Storiesがペンギン・クラシックスの一冊として出版されました)、やがて芥川の作品に刺激された欧米の作家が「新カルメン」を発表しないとも限りま せんね。こうした流れの中に芥川文学を置いてみると、そこに新たな価値付けができるように思えるのですが、どうでしょうか?ともあれ、日本の近代文学が西 洋文学と密接に関係しているということは、この例からもお分かりいただけることと思います。きっと、こんな事例を幾つも掘り起こしていけば、これまでの 「公認の」文学史とは違った文学の深く大きな流れが見えてくるのではないでしょうか。
というわけで、「カルメン」という作品の出自やその後の変遷を眺めながら、文学のダイナミズムについてお話してきました。いかがだったでしょうか。もし このコラムが、皆さんにとって、比較文学が扱うテーマについて具体的なイメージを抱くのに役立つとすれば幸いです。(渋谷)

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