信州大学法科大学院

信州大学法科大学院始まる

(1)信州大学法科大学院の制度設計
 信州大学法科大学院の特徴は、司法改革の理念に忠実であったことである。まず、教育理念として、「法の支配に奉仕せよ」、「知的に究理せよ」、「つねに良き隣人たれ」という三つの項目を立てている。司法改革の目指すところであった「法の支配」の実現を正面からロースクールの理念としてシンプルに掲げていたところに、他のロースクールとは一味異なる信州大学法科大学院の特徴が表れていたといえるだろう。
 この理念のもとで、①豊かな人間性を備えた地域社会の良き助言者としての法曹、 ②経済と経営に強く企業関連の法律問題に対応できる法曹、 ③地域の政策課題の解決や法政策法務の向上に役に立つ法曹、という三つのモデルが立てられていた。 ①は、長野県弁護士会による後継者育成という意義があり、 ②は、経済学部を母体として生まれたという特殊性が考慮されている。 ③は、これからの法曹は、積極的に政治や行政に関与するべきだという時代認識が反映されている。
 司法改革は、多様な分野の出身者から法曹を確保しようという理念を掲げていた。そのため、法科大学院は3年コースが基本であり、2年コースは、3年という期間を短縮したものという位置づけがされている(専門職大学院設置基準18条2項、25条)。信州大学法科大学院が3年コースのみにしたのには、その理念に適合していた。
 そして、多様な人材の積極的な受け入れのために、入試制度において、高度技術法曹枠、すなわち「理工学系・医学系・数理学系の学部卒業者、弁理士、高度情報処理技術資格者などの専門資格保持者、企業や行政出身の専門的技術者や研究者」のための特別枠(2割)が設けられていた。
 司法改革には、法律過疎地域の解消という理念があった。信州大学法科大学院の設立に尽力した長野県弁護士会は、現役の弁護士を専任教員として派遣し、自らの後継者を自らが育てるという意識をもって関与していた。入試における「地域法曹枠」は、長野県で法曹として活躍する意欲を持つ者を対象にした特別枠(2割)である。この特別枠も、全国的な適正配置という司法改革の理念に沿ったものであった。
 高度技術法曹枠、地域法曹枠と一般枠との違いは、選抜方法にあった。すなわち、一般枠においては、適性試験、小論文(A事項 割合は6対4)と志望理由書や大学の成績等(B事項)が2対1の割合であったのに対し、高度技術法曹枠においては、科学に関する資格や職業経験、地域法曹枠においては、地域における社会活動等をB事項に追加し、B事項のウェイトを高く評価することにしたのである。また、地域法曹枠にのみ面接試験が課せられていた(B事項に含められる)。このような選抜方法をとることによって、他学部出身者や社会人を積極的に受け入れることが目指されたのであった。ただし、入学後は、すべての枠は同等に扱われることになっていた。
 最初の入試は、設置認可後の2005(平成17)年1月22日、23日、29日におこなわれた。92名が受験をし、55名が合格、実際に入学したのは36名であった。

(2)スタートでの激震
 2005(平成17)年4月1日に信州大学法科大学院は正式にスタートした。専任教員は21人で、そのうち6人は、長野県弁護士会から派遣された法律実務家であった。
 無事に院生を迎えて、順調な滑り出しをはじめたかのようにみえたそのとき、激震が信州大学法科大学院を直撃する。設置申請において申告されていた複数の教員の論文が、申請時には未完成であったことが、発覚してしまったのである。
 この問題については、当時の関係者に対して制度的にも社会的にもペナルティが十分に科せられているので、ここで蒸し返すことはしない。十二年史として重要なのは、信州大学にロースクールを設置しようと積極的に努力してきた中心的教員を、はじまったばかりのロースクールは欠くことになったということである。
 この不祥事のために、文部科学省によって課せられたのは、次年度の募集活動を自粛すること、欠けた教員を補充し、再発防止の具体的な方策を示した上で、設置計画書を再提出することであった。信州大学法科大学院は、9月16日に再審査のための設置計画書を文部科学省に提出し、大学設置・学校法人審議会による再審査がおこなわれた。11月29日同審議会は、設置計画自体は法令・基準に適合していると判断した。こうして、12月になって、ようやく信州大学法科大学院は、学生募集の自粛を解除できたのである。ただし、募集人員は、30名に制限された。
 2006(平成18)年2月18日、19日におこなわれた平成18年度入試には、88名が応募し、36名が合格、31名が入学した。不祥事が、信州大学法科大学院にどのような影響を与えたのかは検証不可能である。ただし、学生募集の自粛の結果、スケジュール通りの入試ができなかったこの学年が、現在までのうちで、一番司法試験合格者が多いということだけは特筆しておきたい(8名)。

(3)第三回司法試験発表における激震
 平成19年度入試は、2006(平成18)年11月11日、12日におこなわれた。受験者は109名、合格者は53名、30名が入学した。2007(平成19)年4月に平成19年度入学生が入学し、信州大学法科大学院は1年生から3年生まで院生がそろうことになった。
 平成20年度入試は、2007(平成19)年11月10日、11日におこなわれた。当時の法科大学院の人気の高さを反映して、受験者は120名、合格者は64名、40名が入学した。スタート直後の躓きの記憶も薄まり、順調に進んでいくかのようにみえた2008(平成20)年9月、再び激震が信州大学法科大学院を襲う。最初の修了生が受験した第三回司法試験において、合格者が一人もいなかったのである。それまでの2回の司法試験において、合格者0の法科大学院は存在しなかった。しかし、この年、信州大学と愛知学院大学、姫路獨協大学の三校において、合格者が0であった。
 しかしながら、この「合格者0」については、冷静に分析する必要がある。当時の全法科大学院の入学定員が約6,000人であるにも拘わらず、合格者は約2,000人にとどまるとすると、毎年約4,000人の不合格者が輩出されることになる。当初は修了後5年のうち3回しか受験できないというルールがあり、単純に4,000人の増加にはならなかったが、2007(平成19)年に4,607名だった受験者は、2008(平成20)年には6,261名に増えていた。合格者はかわらないのに、受験生がこれだけ増えるということは、単純に考えても合格はより困難になる。わが第一期生が司法試験に挑戦したのは、そのような状況においてであった。
 考慮しなければならないのは、この厳しい状況において、一年遅れの開設で3年コースのみという条件は不利であったということである。多くの法科大学院には、前年、前々年の修了生がいたのである。また、未修者よりも既修者の合格率が高いことは、その後、しだいにはっきりしていくことになる。直近の3年コース修了生という条件でみれば、合格者が0人の法科大学院は、9校あったのである。それにもかかわらず、新司法試験がはじまって最初の合格者0人ということもあり、社会的にも大きく注目されてしまったのは、信州大学法科大学院にとって不運なできごとであった。

PAGE TOP