「神様のカルテ」がくれたもの。

夏川 草介(なつかわ そうすけ)    2009.09.30

私が小学館文庫小説賞に応募したのは、昨年の九月、ちょうど今から一年前のことになります。その頃は、職場が一般病院から大学病院へ移ったばかりのことで、慣れない診療業務と、もともと苦手な人間付き合いとで自身のスタンスを見失い、毎日を、ともすれば鬱々と過ごす傾向があったように思います。そんな私に小学館への投稿を持ちかけたのは、言うまでもなく懸命なる我が細君です。不安定な低空飛行の続く私に、目標を与えてもう一度安定軌道に乗せようという意味合いがあったのかもしれません。気まぐれに小さな物語を書くことはあっても、投稿はもとより、人に見せたことも一度もない私に向かって、細君もずいぶん突飛な提案を持ちかけてきたものですが、結果的にその思惑は、充分に目的を達成したと思われます。
小説の持つ力は偉大です。ささやかな言葉やストーリーが、人の判断を大きく後押しすることもあれば、価値観を転倒させることもあります。実際、漱石に始まって芥川、シェイクスピア、ドストエフスキーなど、脈絡もなく全集で読み漁っていた私は、壁にぶつかるたびに、これらの著作に力づけられてきたものでした。しかし小説は、読む側だけでなく書く側にも大きな力になってくれるものです。書くことによって自分の見失っていたものが輪郭を持ち始め、立ちすくんでいた一歩が踏み出せるようになることがあります。その意味で「神様のカルテ」は、誰よりも私自身を支え、励ましてくれた作品と言って良いのでしょう。
診療と執筆の両立は極めて困難なことだといわれます。しかし少なくとも後者の行為は、多忙な環境であるからこそ私にとって、より必要なものだと思います。これからも多くの傑作たちを読みふけりながら、「診ること」と「書くこと」を、信州の片隅で続けていくことができれば、これに勝る喜びはありません。

 

夏川草介 2009年9月、夜半、松本にて。

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