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毎日が「独創的」

特定研究(代表・大阪大学・平野教授)のホームページでのネット討論「独創的研究とは」への寄稿(2000/10)

千葉大学大学院医学研究科遺伝子制御学講座 瀧 伸介

 このネット討論を楽しく(でももちろん色々と考えさせられながら)拝見させていただいています。こういう場を提供された平野先生の「独創的な」アイデアに敬意を表したいと思います。ネット討論と言う形式の良いところは、言い放しではなく、雑誌などとは較べものにならないくらい短い期間に、何度でも意見の応酬が可能である、と言うことだろうと思います。とすれば、個々の意見は、それのみで完結するよりも、むしろ未完結なもの方が後続の議論を活発にさせると言う意味でも、本庶先生があえて一文を寄せられた思いにかなうのかもしれない、と勝手に解釈して、まとまっていなくてもひとこと言って良いんじゃないかと思い、キーボードに向かいました。

 本庶先生のご意見は、ほとんどの人が感服し、そして共感するものだと思います。ただ、20年後にも残る仕事をしたいと思うことと、それで今日明日どんな研究をするのか、ということが必ずしも結びつかない場合が多いのではないかとも考えます。吉村先生の最初の方のエッセイはむしろ後者の方についてのご意見であると受け取りました。Thomas Kuhnはかつて科学という営みを、「パラダイム転換」をもたらすようなものと「通常科学」の二つに分けて、前者こそが人間の自然観を変革するものだと論じました。Kuhnの言葉の定義をずらせて矮小化してしまうことを恐れずに、しいて私たちの活動にこの論法を当てはめれば、「20年先にも引用され続ける仕事」というのは前者に、そして今日明日の研究(注1)は後者に属するのではないでしょうか。そして、この両方を、同じ「独創性」と言う言葉で論じることには無理があるのだろうと思います。「通常科学」の世界にいる我々凡人にとって、どのような姿勢でもって研究をすれば「独創的」研究が可能なのだろうか、というのが吉村先生の論点ではなかったのでしょうか。

 別にニュートンの巨人の肩に乗る話(注2)を持ち出さなくても、科学が(というか人間の活動のほとんどが)先達の成果に(肯定的にしろ否定的にしろ)依拠していることは自明でしょう。とすれば、自ずと「独創性」という言葉の意味には、制限があるということも合意を得られるものと思います。いくら独創的であろうとしても、ある遺伝子の機能を知るために、自らまずDNAの配列法を独自に開発しようとする人はいないでしょう。ですから、これまで余人の分け入っていない原野を行くにしても、それは既に他の人の「独創」になる「道具(アイデアも含めて)」を携えてのことであるはずです。この意味では、大きな巨人の(変な言い方ですが)肩に乗っている人ほど、より遠くが見渡せる、ともいえるわけで、学問の分野に「流行」があるのも当然の事かな、と思います。誰も見ていない景色を見たいという、科学を職業にする者全員が共有する目的は、もちろん他の人がその肩に乗っていない巨人を(たとえ少々背が低くても)見つけることでも達成されるでしょうが、多くの人が群がる巨人の肩に乗って、他の人たちが見ているのとちょっとだけ違う方向を見ることでもそれは可能なのですから。どちらを取るかは個々の研究者のスタイルに関わることなのであって、それ故に非難されるべきものではないと思います。ただ、どの巨人に一番多くの人が乗っているのかを見定めることに汲々として、次々と巨人を渡り歩くする人がいるとすれば、譬えその人が「良い」仕事をしていても、尊敬したくはありません。

 ニュートンの話に戻りますが、彼はまた、自分は砂浜できれいな貝殻(だったか小石だったか忘れましたが)を見つけては喜んでいる子供のようなものだった、とも述懐しています。こちらの方は自らの科学に対する姿勢を吐露したもので、非常な共感を覚えるフレーズです。白状してしまいますと、私には本庶先生におけるクラススイッチのように、10年20年、いや生涯をかけてもその機構を明らかにしたい、といえるような具体的な対象はありません。あるとすれば、免疫系がどうやって働いているのかを少しでも多く語れるようになりたい、という欲求だけです(それでも、生物学の学生としてスタートした自分にとってみれば随分限定された目標だと思っていますが)。そんな欲求は、曖昧模糊としすぎていて、当然具体的な研究テーマにはなりませんから、研究の対象はある時には抗体遺伝子であり、免疫細胞の分化であり、また、ある時には免疫疾患であったりしてしまいます。たとえば、目の前にいるノックアウトマウスが、ちょっと変わった表現型を示したら、「何でこうなるのだろう」と思い、調べてみようと思うこと、ある日ふと目にした昔の論文の結論に「そうじゃないんではないか」と思ったり、帰りの電車で半分眠りながら突然「こうなっているんじゃないか」と思いついたりして、自分なりの仮説を立ててそれを検証してみること、学生さんが、こういうのやりたいんですけど、と言ってきたアイデアをどうすれば達成できるかを一緒に考えること、こういったきっかけで始まる「小さな研究」と、その結果の「なーんだ、そうなっていたのか」の積み重ねを通して、免疫系をより良く分かるようになりたいのです(小市民的ですかね)。そんな散漫な事じゃあ自分の世界は作れないよ、と言う忠告も聞こえますが(分かってます、その通りかもしれません)、別に浅田彰風の逃走論を気取っているわけではなくて、こと免疫系に関する場合、多分自分だけしか認識していない(と思いこんでいる)小さな驚き、疑問を全体像の中に当てはめて説明したい、「みんなそう思っているけど、実は違うんだよ。何故なら...」と言ってみたい、という欲求を抑えきれず、あれこれと考えているのです。かといって、もちろん免疫系に関することなら何でも良い、というわけでは、もちろん、ありません。私自身の、その選択の「基準」については(具体的ではないですが)以前日本免疫学会のニュースレターに書かせていただいたので省略しますが、多分、この部分が(あるとすれば)「独創性」を付与することの出来るステップなのであり、本庶先生の言われた「嗅覚」みたいなものが働くところなのでしょう。日常の研究は、小さな分岐点でどちらの道を行くのか、という決断の繰り返しだと思います。そのひとつひとつの「選択」の積み重ねが、結果、その研究の「独創性」(他の人がやった場合とは異なる研究として展開すると言う意味で)を構成する重要な要素であるのではないでしょうか。

現代の科学における評価にpeer reviewが重要なことは、ほとんどの信頼できるjournalがこのシステムによって掲載の可否を決定していることや、各種の研究費がやはりこのシステムでその配分が決定されていることで明らかです。外部の専門家による評価委員会などの設置によって、ある研究者もしくは研究機関の評価をするという、現在も一部で進められており、また国立大学の法人化に伴ってその重要性がおそらく大きくクローズアップされるであろうシステムも、peer reviewに他なりません(注3)。つまり、ある研究のクオリティーの評価は(そして個人、機関の適性もまた)、分野を同じくする他人の評価で決定される、という当たり前の結論が導かれるわけです。「独創性」の評価もまた、この埒外ではあり得ないでしょう。こういう状況で、他人の評価なんか気にせずに、自分の内的な「独創性」「好奇心」を追求するべきだ、と断言し、その方向で実践する事が許されるのは限られた人だけではないかと思います(もちろん、その状況は自ら勝ち取ったものでしょう)。そうじゃない者は、内的な欲求(好奇心と呼んでも良いかも知れません)に動かされて始めた研究なのだから可能な限り続けたいという望みに励まされつつ、そして、少しは他人と違うことが出来て、他の人の研究に影響を与えられるのではないかという、(ともすれば崩れそうになる)自負を鼓舞しながら、この社会でやっていきたいと思えばこそ、少なからず他人の評価(短期的な)も意識せざるを得ないのではないでしょうか。おおかたの人は、そういう内的なものと外的なものの間に挟まれて、いわばダブルバインドとも言うべき状態にあるのではないかと思っています(皆さんどうですか?ありゃ、私だけですか!?)。なかなか完全に一致することのないこの二つの要求の間を揺れ動きつつ、研究テーマの設定・選択のレベルから、ちょっとした思いつきや実験法の改良のレベルまでを含めた「小さな独創性」を不断に積み重ねることで、いつか「大きな独創性」にたどり着ける(かもしれない)と期待するのは楽天的に過ぎるのでしょうか。

 結局、吉村先生に近いところに着地してしまったような気がします。似通った世代や教育故の収斂なのかも知れません。ただ、こういうところに文章を寄せられるのは、文章の内容(「哲学」とでも呼べば良いのでしょうか)と、自分が実際にやっていることとの間に大きな齟齬のない方々が、どうしても多くなってしまい、議論が無条件の無謬性を帯びがちになります。それ故に、「ズレ」ちゃってる人はなかなか声を挙げられないのではないか、と思います(注4)。この「ズレ」た一文が、より広い範囲の方々の参加の呼び水になれば幸いです。最後に、この文章を書くに当たって、ご意見を賜った諸兄に感謝します。

注釈

1. これはもちろん言い過ぎで、数年のspanの研究を念頭に置くべきなのでしょう。

2. ずっとこれがニュートンの言ったことだと思っていたのですが、最近、アメリカの社会学者、ロバート・モートンの言葉だというのを読みました。

3. 科学者の社会的責任、公開の必要性というのは、またちょっと別の話です。

4. 「ええかっこゆうてるけど、やってることと違うやないか」と言う批判は良くあることだし、つらいものです。

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