NOW135
10/20

松本女子師範学校(写真は大正初期)これまで矢澤氏の業績については、まとまった調査が行われてきませんでしたが、今回、本学の大学史資料センター、附属図書館、自然科学館の連携により、新発見の野帳“矢澤ノート”(※2)と、なんと明治時代に発行されていた貴重な科学雑誌「信濃博物学雑誌」の研究が進み、そこから研究者・教育者、矢澤氏の功績の一端が見えてきました。まさに、信州大学の自然科学研究の原点となる、史実再発見の記録です。(文・佐々木 政史)(※1)やざわ こめさぶろう、よねさぶろうと2説あり (※2)調査時点での仮称信州大学は前身校の設立から数えて優に百年を超える歴史を有しています。その歴史に関する資料の体系的な収集・整理・保存・公開・展示等を担う組織が「信州大学大学史資料センター」です。昨年10月に学術研究院(理学系)の東城幸治教授がセンター長に就任したことをきっかけに、信州大学の自然科学研究史に関する企画展示にも力を入れています。充実したコレクションを持つ「自然科学館」の収蔵物について、文理融合の観点から研究を深めることで、コレクションの価値が高まると考えています。同センターが10月28日から開催する企画展示に注目が集まっています。本学前身校のひとつである松本女子師範学校の初代校長を務め、自然科学の研究者でもあった「矢澤米三郎」の業績に光を当てるものです。矢澤氏は自然科学館収蔵のライチョウ標本の採集者などにその名を見ることはできますが、大学史資料センターの福島正樹特任教授によると「実は、これまでまとまった研究はされてこなかった」と言います。本学の歴史において、“知っているようで知られていない人物”であったというわけです。こうしたことから、今回の企画展示の構想が持ち上がったことをきっかけに、福島特任教授は矢澤氏についての研究を開始。これまであまり知られてこなかった業績や人となりが明らかになってきました。1902年に「信濃博物学会」を結成、なんと500人以上が集まる大規模な学会で、信州の自然科学研究発展の機運を高めました。さらに、自然科学研究誌の「信濃博物学雑誌」の創刊に中心的に携わっています。これは信州全域の自然科学研究者から原稿を集めて編纂したもので、府県の規模でまとめられた自然科学研究の雑誌は当時としてはとても珍しいものであったようです。東京府(当時)でも同様に地域から広く原稿を集めた自然科学雑誌が発行されましたが1936年のことで、「信濃博物学雑誌」発刊から30年以上後のことになります。「とても先見の明があったと言えるのではないでしょうか」と福島特任教授は話します。「信濃博物学雑誌」は不定期で発行され、1913年に廃刊するまで39号を発行しています。だいたい10人から20人程度が寄稿し、矢澤氏の教え子である田中貢一氏が主に編纂に携わりました。挿絵が多いこと「信濃博物学雑誌」表紙掛軸:美術品とも呼べる日本画、ライチョウの精密画(自然科学館所蔵)が大きな特徴のひとつで、活き活きとしたタッチで描きこまれており、読むものの目を楽しませてくれます。矢澤氏も執筆陣の一人に名を連ねており、昆虫や植物などについての概説的な記事も書いています。ちなみに、「信濃博物学雑誌」という誌名からも窺い知れるように、矢澤氏が研究者として活躍していた時代、自然科学系の学問は「博物学」と呼ばれていました。今では、自然科学系の学問は生物学や地学などの専門分野に分かれていますが、当時は分かれておらず、広く自然科学を扱う学問として博物学があったのです。博物学は研究領域が広いため、当時の博物学研究者は様々なことに関心を持つ好奇心と視野の広さを持っていたと思われます。中でも矢澤09日本初、県単位で博物学雑誌信州の自然科学研究の礎築く矢澤氏の業績のひとつが、信州の自然科学研究の礎を築き、大きく発展させたことです。ライチョウのはく製標本など自然科学館の展示物に名が信州大学・自然科学研究のルーツを紐解く偉大なる先駆的研究者矢澤米三郎氏の情熱と功績自然科学は本学を代表する研究分野のひとつ。北、南、中央といった日本アルプスを望む信州の豊かな自然環境は同研究の絶好のフィールドであり、自然科学研究はまさに本学の“お家芸”と言えますが、その黎明期に活躍された先駆けたる研究者の存在が昨年度からの調査でわかってきました。本学前身校のひとつ、長野県松本女子師範学校の初代校長であり、旧制松本高等学校の講師も務めた矢澤米三郎(※1)氏です。「矢澤ノート」の新発見と「信濃博物学」

元のページ  ../index.html#10

このブックを見る