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12 明治12年(1879年)、旧南安曇郡東穂高村(現在の安曇野市)に生まれる。明治期の彫刻家。「碌山」は号、本名は守衛(もりえ)。明治34年(1901年)ニューヨークに渡り絵画を学び、パリで近代彫刻の父といわれるオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。 「坑夫」は荻原碌山の初期の代表作である。教育学部図書館にある像は、教育学部の田原幸三元教授、松沢邦彦元教授(両名とも故人)が碌山美術館建設の際、入口の大扉を制作寄付した返礼として寄贈されたものである。 綱を引張るイタリア人の男性をモデルに、ロダンを思わせる力強さがみなぎる像の迫力は、見るものを引きつける。 この塑像をパリで見た高村光太郎も絶賛した。 狂言「膏薬練」の1シーンを表現した木彫で、東京藝術大学に石膏像がある。明快な木取りによって把握された構図から躍動感が伝わってくる作品である。松本キャンパス 中央図書館膏薬練り作者 ・ 荻原 碌山長野(教育)キャンパス 教育学部図書館明治12年(1879年)-明治43年(1910年)坑夫制作年代:昭和39年1964年頃木彫 高さ17×幅23.3×奥行12㎝制作年代:明治40年(1907年)ブロンズ 高さ47×幅46×奥行32.5㎝ 旧制松本高等学校校章の入った旧思誠寮の瓦。思誠寮は、旧制松本高等学校の学生寮として大正9年(1920年)に開寮した。思誠寮という名前は、孟子の「誠ハ天ノ道ナリ、誠ヲ思フハ人ノ道ナリ」から取られている。 旧制高校での青春を描いた『どくとるマンボウ青春記』(北杜夫)には、この旧思誠寮での生活が綴られている。新制大学に移行後も、木造の旧思誠寮は信州大学の学生寮として昭和58年(1983年)まで使用され、その後移転し、現在の思誠寮が建てられた。下の写真は移転直前の建物の風景。松本キャンパス 人文学部・理学部旧思誠寮瓦作者 ・ 石井 鶴三いしいつるぞうおぎわらろくざんせいりょうこうやくねし制作年代:大正9年(1920年)高さ31×幅44×奥行き13㎝旧思誠寮

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