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まず現在の「長野県」になるまでの変遷を把握しよう。「明治維新」後、「信濃国」内の旧幕府領が「伊那県」、「中野県」となり、明治4(1871)年7月の廃藩置県をうけて、各藩が県となった結果、「信濃国」内には、14の県が存在することになった。 同年11月、各県は長野県と筑摩県に統合され、さらに明治9年に「長野県」になったんだ。その間、なんと、今の岐阜県の飛 騨地方が筑摩県に含まれていた時期も あったんだよ。 ご存知のとおり、県内の主要都市に、長野市と松本市があるよね。ひとつの県名にするとなると、「旧長野県」派と「筑摩県」派の主張は当然かみ合わない。 …統合はされたけど、「県庁が長野市では北すぎる」とか、「やっぱり県を分けよう」、という運動(移庁論・分県論)も起き、県民感情としては南北の対立が激しくなっていったんだ。 「分県」が県議会で、すわ採択か!?となった際に、議場を埋め尽くした県民の大合唱が起きた、との逸話もあるらしい…つまり、 …県民の対立を憂いて、とも言われるが、「♪信濃の国は十州に」…の、名歌『信濃の国』は、明治32(1899)年に発表された。信州大学教育学部の前身、長野県師範学校の浅井洌先生が作詞し、校歌にもなっている歌だって、知ってたかい?… 歌詞には長野県各地の山河や県に縁の人物などが多く登場し、長野県という地域をひとつに歌い上げている。…だからこの歌は、県外からは「連邦」と揶揄され、ばらばらだった長野県の一体性を高め、県民の精神的な支えになっていったとも言われている。大正6年に書かれた浅井洌自筆の書「信濃国」(教育学部所蔵)『信濃の国』は長野県民の心をひとつにしたのだぁぁ! そこで登場するのが『信濃の国』なのだ。教育学部の前身校、長野県師範学校 浅井洌先生移庁・分県24
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