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旧制松本高等学校から大正 8年(1919) 松本高等学校設立。文科甲乙・理科甲乙計4組定員160名。 9年(1920) 新校舎落成。思誠寮開寮。 11年(1922) 第1回対寮駅伝始まる。思誠寮自治制となる。『思誠』発刊。 インターハイで庭球部初勝利。昭和 2年(1927) 射撃部インターハイで優勝。 3年(1928) 陸上部インターハイで優勝。 5年(1930) 第一次松高思想事件。 7年(1932) 第二次松高思想事件。 山岳部前穂高屏風岩冬期初登攀。『思誠寮報』発刊。 8年(1933) 第三次松高思想事件。長野県教員赤化事件。 9年(1934) クラス定員30名に減員。『校友会雑誌』発刊。 13年(1938) 国民総動員法施行。勤労奉仕始まり、蹴球場を掘り返す。 14年(1939) 第四次松高思想事件。 山岳部奥又白より前穂高への複数ルート冬期初登攀。 15年(1940) 第五次松高思想事件。校友会解散、報国団結成。自治制廃止。 16年(1941) 太平洋戦争。インターハイ禁止通達。山岳部台湾中央山脈遠征。 17年(1942) 対寮駅伝空襲警報発令で中止。22回生9月繰り上げ卒業。 18年(1943) 文科学生学徒出陣。野球・庭球部解散。インターハイ中止。 23回生9月繰り上げ卒業。 19年(1944) 修業年限2年に短縮。24回生9月繰り上げ卒業。 20年(1945) 敗戦。授業、思誠寮再開。校長・三教授退陣と自治制要求運動。 21年(1946) 修業年限3年に戻す。インターハイ再開。 22年(1947) 学校教育法施行。旧制高等学校廃止が決定される。 陸上部インターハイ2種目優勝。 23年(1948) 30回生入学。蹴球部最後のインターハイで準優勝。 24年(1949) 信州大学発足。30回生1年次修了(新制大学に進学)。 25年(1950) 29回生卒業。松本高等学校閉鎖。 (『われらの青春ここにありき』より)旧制高等学校の教育といえば、「教養主義」である。「教養主義」とは、人文・社会・自然科学にわたる様々な学問の探究により人格形成を目指すことであり、松本高等学校でも文科・理科に関わらず、全分野を網羅した授業が行われた。例えば、第28回生(理甲2)の小林澈郎氏(東京都立大学理学部教授)は、次のように振り返っている。授業に刺激を受け、深夜に及ぶ読書、教授たちとの交流、仲間との論戦の中で深められた思索は、文芸部の『校友会雑誌』、講演部の例会や、春秋弁論大会、寮誌『思誠』、『思誠寮報』などで発表された。その営みは戦局の悪化するなかでも滞ることはなかったという。また、山岳部は穂高岳を中心に数々の「松高ルート」を開拓。陸上部、庭球部、蹴球部などの運動部もインターハイで活躍した。終戦後、新制大学は「人間的教養の基盤の上に、学問研究と職業人養成を一体化しようとする理念」を掲げて誕生し、「専門教育」の前に「人文・社会・自然の諸科学にわたり豊かな教養と広い識見を備えた人材を養成」する「教養教育」を行うことが定められた(『学制百年史』)。信州大学では、松本高等学校を引き継いだ文理学部を始め、各キャンパスで教養課程を展開したが、昭和41(1966)年、全学部の教養教育を松本キャンパスで行うために、教養部へと発展。不断の改革を行いながら、現在は全学教育機構がその任を担っている。松本高等学校によって涵養された「教養主義」は、信州大学の教育の礎として、現在も生き続けているのである。旧制松本高等学校の沿革授業には、理科にも倫理と人文という文科的な講義があった。倫理は関屋光彦教授が担当。最初の授業でいきなり黒板にヒルティと書いて「幸福の必要欠くべからざる条件は、倫理的世界秩序に対する硬い信仰である。(中略)」などと話した。「ヒルティとの出合いは大きな衝撃であり、また心奮い立たせる力ともなった」。(『春寂寥』より)思誠寮の北・中・南寮の姿を残した貴重な空撮写真17
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