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12我々は将来の指導者である。人に先だって憂へること、一はやく/真の世界に目覚めて、若き真実の、誠の悩みに入ることが必要で/はないだらうか。/日本のハイデルベルヒとも言ふべき古き信州松本である。ザクソニア団に/も勝って居る筈の思誠寮である。時代の進歩により、我々の/責務も変って居る。真の恋愛に目覚めたハインツの如く、今日/日本の学徒たる我々、将来日本の幹となるべき我々は、/二年制高校生としても、はやく、いちはやく、真の高校生活、真の寮生活に/目覚めねばならぬだらう。我々の先輩、我々の兄は聖戦完遂/の為、戦闘してるんだもの。入寮以来、僕等は、毎日/\駅伝にズクを出せ、一学期の最大行事は駅伝であると聞かされ、僕は、実に大なる、希望と、期待とを持つてゐた。此の為、僕は、是非選手にならうとして、未だ癒らない胃病をおして、頑張つたのであつた。然るに其の結果はどうであつたか。駅伝は遂に中止となつてしまつたのである。僕は、あの警報を聞いた時、直ぐに「中止せよ」、との言葉は浮んだものゝ、いや、此処迄やつたのだ。どうしても最後迄やりたいと云ふ考に打ち消されてしまつた。併しやがて我にかへつた時、僕は、「非常時」が、しみ/\感ぜられた。今迄自分は、高校生になれたといふ考で浮きつき、やゝもすると超非常時局を忘れ勝ちであつた。成程駅伝が中止されたのは辛い、併し、自分の眼前には、実に大きな職分がある、我々は、一旦緊急ある際には、他の総てを忘れ国の為に画さなければならぬのだ。今日分は以前の浮薄な気分を一掃して、真の我にかへる事が出来たのに嬉しく思つてゐる。国家指導者となるための意識の高さ兄貴が東京からやって来た。遽しい東京人の行動が/忘れて居た俺の心を刺激する。東京に於ける/生活は、生活そのものが、戦争であり、連日の/爆音は都会人の神経をいやが上にも鋭がらせる。/然し松本に於ける生活は一面に於いて戦争を/忘れ得る生活である。忘れ得る生活であるが故に/我々はそれを忘れ得ないのだ。/飛行機も飛ばない。防空演習もない。食料不安/も深刻な影響を与へはしない。けれどそれは我々の/内的生活の根本的改革を要求して居るのだ。/精神生活を外的に切り変へると言ふことは出来る事でない。/然も戦争はそれを敢てするのだ。死と言ふことによって、/死に直面した時、その人の最も本質的なものが、/にじみ出て来る。そして表面はいかに虚偽に満ちた物/であっても、死に臨んだ時その人の生活は真実な物/になるのだ。/我々は今此の死に面せる生活を営んで居るのだ。/戦局が苛烈になるにつれて我々の生活は真剣に/なって行く。勿論それは戦争に熱狂せる刹那的/な生活であってはならぬ。/死に面する生活を如何に真実に、自己に忠実/な日々を送り行くかと言ふことだ。空襲のない、平穏な松本で名物行事であった対寮駅伝大会中止思誠寮の寮生日誌附属図書館に所蔵されている昭和17年(1942)から19年(1944)までの寮生日誌。日誌は、それぞれの寮(北・中・南)で各部屋の担当者が執筆し、翌日は次の部屋へ、という具合に回覧されました。思誠寮の自治組織思誠寮は、総務部を中心に複数の自治組織によって運営されていました。また戦中には、自治組織ではないものの、道義修練部のような団体も、寮生活に大きな影響を及ぼしていました。対寮マッチ「一丸となって“ズク”を出そう」4月には入寮・寮対抗の駅伝大会、5月の対寮マッチでは、バレーボールやバスケットボールなど、様々な競技が行われます。駅伝や対寮マッチは各寮が一丸となって競いました。炊事部炊事部は寮生の食と健康を支えるため、創意工夫して献立作りに励んだことが日計表から伺えます。入寮歓迎晩餐会や記念祭の晩には、ご馳走が振る舞われ、寮生たちも心待ちにしていました。その費用を確保するため、安価に食材や食器類を調達することも、委員の腕の見せどころでした。寮日誌と一緒に残っていた、松高生のバンカラながらも仲睦まじい写真。の日記 (『思誠寮日誌』昭和18年4月10日 北寮)(昭和19年4月30日 中寮)(昭和17年4月20日 中寮)昭和17年4月19日、対寮駅伝大会が空襲警報のサイレンによって中止となります。寮生たちは落胆しますが、国に非常時が差し迫っていることを実感し、学生としての義務を果たそうと気持ちを新たにします。空襲のない平穏な松本での生活のなかにも、戦争への覚悟、死への覚悟を問いただす寮生たちの思いが綴られます。

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