NOW106_web
11/20

この運動の余波は信州大学にも波及し、当時谷垣は医学部自治会の委員長であったようだが、筆者はその詳細を知らないので、これ以上立ち入ることはしない。大学を卒業した彼は医局に残らず大学を離れ町に出た。関東圏の病院(埼玉・小川十字病院の東璋3)の下で1971年から3年間にわたり整形外科、麻酔科の研修)、都内、北海道などで一般外科、胸部外科や腹部外科、麻酔科などの研修を数年ほどした。谷垣2)は1981年に「砂漠の国ニジェール」という手記を発表した。これは彼がはじめてニジェールに滞在した1979年に、サハラ砂漠のテキタンステムで10か月過ごし、地元の遊牧民トゥアレグ族の生活を体験した記録である。それを読むと彼の感動が如何に大きかったかがよくわかる。トゥアレグ族の食事は、ヤギの乳を少し発酵させたもの、あるいはチーズにしたもので、1日2回の質素な食事であった。が、あくせくと日々の生活に追われ働くのでなく、ゆとりのある時間を満喫していた。彼はこの国の風習に戸惑う一方、感動すら覚えたようだ。彼はニジェールの人が名誉とするのは、好意のあるもてなし、親切、優しさ、分け隔てしない対話、共に食べ、休息所を提供できることだという2)。ちなみに東の報告3)によると当時、谷垣が親身になって患者さんと接する医療活動が、ニジェールの大統領の耳に入り、大統領は、彼の医療者としてのひたむきな行動に深く感動したとある。ニジェール共和国は政治の変動だけでなく、経済の立て直しもはかばかしい成果があがらなく、経済的には世界の最貧国の一つであった。国土は日本のほぼ3倍で人口が1,500万人、1992年の1家族当たりの年収が1万円と言われていた1)、2)。彼がニジェールに2度目の足跡を記したのは1982年であった。それは前述したようにJICAからニジェールの首都ニアメの国立病院に派遣された時である。谷垣は1985年から1987年にかけトヨタのランドクルーザーをフルに活用し、ニジェール国内をくまなく探索して回った。この行動は観光を装って、国内の医療事情をつぶさに観察し、情報を収集することにあったと考えられる。このような彼の探索行動は、ニジェール国内の医療施設の質と量の実態調査であって、後のパイロットセンター設立に役立っている。1992年に10年間のニアメ国立病院での外科医療の向上と外科医養成の任務を終え、JICAの援助を受け私財8,000万円をつぎ込み、ニアメから770km離れた地方のテッサワに、現地医療の向上と自立のために、案内人を意味するパイロットセンターを設立した。職員は谷垣医師、研修医2名と看護師6名、助手4名、麻酔士1名、検査技師2名、門番、運転手各1名の総勢10数名であった。かつてテッサワを訪れた東3)氏の手記には、先に述べたことだが谷垣の献身的な医療活動に、大統領はじめ多くの人が感銘を受けたと記してある。遠くから来る患者ばかりか通りすがりの人までが、谷垣を見かけると「ドクトゥール・タニ(谷)」と声をかけていたという。医療機器などはJICAからの援助が中心であった。民間レベルでも谷垣のニジェールでの医療を物心ともに援助する郷里の同期生や地元の方々がおられた4)、5)。彼の医療費を節約する姿勢は徹底し、再利用できるものはすべて活用した。術後検査は必要なとき以外はしないし、術後の処置や感染予防にも谷垣の工夫があった6)。こうして谷垣が孤軍奮闘していた時期、1999年5月23日に彼の妻静子夫人が、原因不明の高熱で亡くなられ、ご遺体は広い裏庭の一角に設けられた墓地に葬られた。1994年に彼が第22回国際医療功労賞を受賞したことは、生前に夫と共に苦労された静子夫人へのせめてもの慰労となったのではなかろうか。パイロットセンターの活動は1992年から続いていたが、JICAとの契約は2001年に終了した。この前後にニジェール政府は、世銀や他の国から多額の援助を受け、自前の「人民プロジェクト」を創設した。そのため彼の施設はやむなく方向転換を強いられた。そこで谷垣は2度目の挑戦として2002年にテッサワ中央診療所の隣に、新たなパイロットセンターを開設した。しかし、機先を制するかのように先の人民プロジェクトに、2006年、世銀とフランス政府から再び資金援助があった。地元優先の谷垣にとっては、自立を目指す医療施設に、包囲網が張られたようなものだった。これほどまでに彼は追い詰められてしまった。おわりに谷垣のこれまでの足跡をたどってみて感じたのは、彼が忍耐強く幾度となく修羅場をくぐり抜け乗り越えたことである。ただその最期はあまりに突然であった。これだけは残念でならない。彼が現地の人々の温かくしかも優しい心に接し、人生の終の棲家をアフリカの大地に選んだことは間違っていなかった。筆者はそう思うし思いたい。彼の人柄は一方の極に寡黙と実直、執念と信念が、他方の極には感動と憧憬、忍耐と挑戦があり、これらの両極が対立するのでなく均衡している7)。この特異な天性が過酷な環境や逆境にめげることなく、患者との触れ合いでは、温かい思いやりや優しさとして発揮されたのである。彼は今頃最愛の妻静子さんの墓の横で、ニジェールの砂漠の静寂に浸り、風の音に耳を澄ましているのだろう。神の祝福がありますように(完)。ニジェール共和国とのはじめての出会いニジェールでの2度目の挑戦ひがしひがし10〈参考資料〉1)熊谷義也:2)谷垣雄三:3)東  璋: 4)肥田和子:5)平井英子:6)中原美佳:7)藤森英之:ニジェールで医療30年 現地住民の健康を守りつづける、谷垣先生に支援の和を広げたい。谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』30-31pp所収、2011年2月25日 NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構[OMEAAA]砂漠の国ニジェール『ニジェール医療報告』1999年総医研会報No.14掲載ニジェール・谷垣医師への支援について・・・11年間の医療活動に・・・『ニジェール医療報告』1993年総医研会報No.8掲載谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』2-3pp所収、2011年2月25日NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構〔OMEAAA〕谷垣医師宅での10日間の滞在 谷垣雄三医師を訪ねるニジェールへの旅『ニジェール紀行』6-16pp所収、2011年2月25日NPOアジア・アフリカにおける医学教育支援機構〔OMEAAA〕ニジェールで医療活動を経験して ―看護婦からみたテッサワパイロットセンター― 『ニジェール医療報告』1995年総医研会報No.10掲載追悼 谷垣雄三先生の軌跡 信州医誌65(4): 227-228, 2017より転載藤森 英之氏 PROFILE1960年信州大学医学部医学科卒業。1961年東京医科歯科大学精神医学教室。1963‐1965年ドイツ学術交流会(DAAD)奨学生。東京都立松沢病院精神科部長、都立墨東病院神経科部長を経て(元)東京都立松沢病院副院長。退職後、吉祥寺病院(調布市)、池沢神経科病院(羽生市)に勤務を経て、現在、東京都非常勤医員。臨床精神病理学2008年谷垣の着実な積年の努力にシチズン・オブ・ザ・イヤーが与えられた。2009年に第16回読売国際協力賞を受賞した。2010年にはオムロンヒューマン大賞が授与された。

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る