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ニジェールはじめに谷垣雄三先生がはじめてニジェールを訪れたのは1979年(38歳)であった。先生(以後、敬称略)は当時日本企業のウラン試掘に嘱託医として参加していた。その頃アラビア石油の産業医 熊谷義也医師1)に出会い、氏の友情と支援はその後30年以上も続いていたのである。谷垣の勤務していた会社はニジェールでのウラン試掘のためのチームであったがウランが見つからず致し方なく撤退した。彼は1年3か月の滞在で帰国せざるを得なかった。同地の医療の現状は想像を絶するもので、それにショックを受け、何とかしなくてはと第一歩を踏み出した。そうした経験から彼は現地医療に必須の内視鏡の知識と技術の習得に励み、同時にお茶の水のアテネ・フランセに毎日通ってフランス語をものにした。1982年JICAからニジェールの首都ニアメの国立病院に外科医として派遣され、これが谷垣にとって2度目のアフリカ滞在となった。彼はその後現地医療の向上に身を粉にして働いておられたが、彼の最大の目的は2つあって、1つはニジェールの外科医療の向上、2つ目はニジェール人の外科医養成であった。このような課題を遂行する途中で2017年3月7日に76歳の天寿をまっとうされた。谷垣は京都府京丹後市に生まれ地元の高校を経て信州大学に1961年に入学した。彼が入学した頃日本の政治状況は、米国との安保改正に揺れ、それに抗議する全学連の行動が燃え上がっていた。この動向に多感な彼が影響を受けたことは充分考えられる。また一方1960年代の後半から、鬱積していたインターン制度をめぐる問題、医師国家試験ボイコットと医局講座制反対に、東大の若手医師を中心とした青年医師連合が激しい闘争を始めた。信大学生時代を経て学外での研修信州大学医学部卒業生 故 谷垣雄三医師の軌跡アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語今年4月、信州大学医学部卒業生の藤森英之氏から、アフリカで亡くなられたひとりの日本人医師を追悼するご寄稿が届きました。医師の名は谷垣雄三氏、同じく医学部の卒業生(1967年)で、かつてテレビ東京の番組「世界ナゼそこに?日本人」にも取り上げられ秘境アフリカの貧国ニジェールで唯一の日本人でした。私財を投げ打って異国の地に病院を作り、まさに波瀾万丈の人生を送られた日本人医師の尊いお話を紹介させていただきます。(総務課広報室)追悼 谷垣雄三先生の軌跡藤森 英之※寄稿原文のまま掲載しています。09(写真:読売新聞社)①ニジェールで、看護師らとともに 術後の患者に容体を聞く谷垣雄三医師②谷垣医師が開設した ニジェールの外科病院「テッサワ・パイロットセンター」③「テッサワ・パイロットセンター」で 手術を行う谷垣医師123

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