地域と歩む|信州大学地域戦略センター
28/76

呼ばれる郭が残っており、高遠城は信玄の築城と言われている。武田信玄の研究者である笹本教授にとって、高遠城は特別な城なのだ。「高遠城の特徴は、城の弱点である東側を守るために掘られた巨大な堀切です。本丸から遠いところほど掘が大きくなっています。堀切と土塁で城を守り、土塁の上にはさらに塀が設けられていました。いかに城を守ろうとしていたかがよくわかります」と笹本教授。そして、高遠町の魅力を「山にひっそりと抱かれるようにこの地に住んだ人々は、独自の文化を育んできました。先人たちから受け継ぐ文化を大切に守り、また子に伝えていく。田山花袋の歌にあるように、『たかとほは山裾のまち古きまちゆきあふ子等のうつくしき町』なのです。見知らぬ私にもよく挨拶をしてくれる、うつくしき子等が今も変わらず育ち、その子等を育む親や、天下第一の桜が咲き誇る地域とそれを守る人々がいる。その高遠の城と桜を守るために信大がお役に立てることを、とてもうれしく思っています」笹本教授と高遠城跡との関わりは昭和61年に遡る。「高遠城跡」は昭和48年に国の史跡指定を受けた。史跡の保存、復元整備の基本計画やその実施のため「高遠城跡保存管理計画策定専門委員会」を設置。当時、助教授だった笹本教授が日本近世史の専門家として参加した。平成12年度には「史跡高遠城跡整備基本計画」を策定、17年度には地域の特性を生かし、高遠城跡らしい将来の姿を描き、保存・活用していくために、「史跡高遠城跡整備実施計画」が決まった。四半世紀にもわたり、高遠城跡と深く関わる笹本教授にとって、今回の計画はどんなものなのか-。「造園、樹木、そして歴史。それぞれの専門分野を生かし、『高遠城跡の未来』を多角的に考える一翼を担えるのは、本学ならではと自負しています。その知識や人間性はもちろんですが、『気心の知れた仲間』でもある先生方のご協力を得られることは、課題を率直に言い合って、本音で高遠城跡のこれからを語れるということです。人と人の繋がりを生かし、歴史に学び、地域の文化や景観を作っていく。やがて、それも歴史になっていく・・・。それは素晴らしいことではないでしょうか」高遠城は多くの謎に包まれている。築城年も、その場所さえも明確ではない。「平安時代の末頃から、この付近を支配する領主の居城があった」「南北朝のころから7代にわたって高遠の領主であった高遠氏の居城があった」などの諸説があるが、いずれもその位置を示す史料は残っていないのだ。確実な史料と言われるのは武田信玄の側近、高白斎が書いた「高白斎記」にある「天文十六年三月 高遠山の城 鍬立」の記載だ。しかし、信玄が新しく建てたものなのか、滅ぼした高遠氏の居城を拡張改修したのかは不明。信玄の参謀をつとめ、築城技術に優れていた山本勘助の「縄張り」で行われたとも言われ、今も『勘助曲輪』と史跡高遠城跡整備実施計画策定事業歴史に学び、未来を創るプロジェクト本学と伊那市は平成17年に包括的連携協定を結んでいる。これは、地域の文化・産業・医療の振興、地域資源の保全・活用、教育及び人材育成、自然学習・環境保全、安心・安全の地域づくり等さまざまな分野で協力するというものだ。同年に発足し、休止していた「史跡高遠城跡整備委員会」が、昨年8月に再び活動を開始した。本学の笹本正治副学長が委員長に就任し、農学部の佐々木邦博教授と岡野哲郎教授も委員に名を連ねる。「歴史」「造園」「樹木」それぞれの研究者が、専門を生かして取り組む「高遠城跡の未来」への思いを聞いた。(文・金井奈津子)したのかは不明。信玄の参謀をつとめ、築城技術に優れていた山本勘助の「縄張り」で行われたとも言われ、今も『勘助曲輪』と城跡と里山文化について解説する笹本正治教授「天下第一の桜」の史跡高遠城跡守り育む悠久のむかしに思いを馳せを池上秀畝 画 「旧高遠城之真景」 年代不詳伊那市立高遠町歴史博物館所蔵日本画家池上秀畝が描いた、廃城以前の高遠城の姿。桜満開の高遠城址公園と南アルプス仙丈ヶ岳登録有形文化財「高遠閣」前にてかんすけぐるわ参28伊那市と進める里地・里山キャンパスづくり信大NOW No.73地域と歩む。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です