地域と歩む|信州大学地域戦略センター
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小菅集落は、小菅修験遺跡とほぼ重なっている。この地域は平安時代の末には、戸隠や飯綱(共に長野市)と並び、北信濃の修験の霊場となり、15世紀初頭には、小菅山元隆寺(現在の小菅神社)として広壮優美を極めていたという。その中心となった大聖院(現在は跡、また庭園のみ)には、「観音菩薩三十三応化身像」(板絵・県宝)や南北朝時代に制作された「両界曼荼羅」(写真)など多くの文化財が所蔵されていた。*しかし過疎化が進む小菅地区にとって、これら文化財を維持し、保護をしていくことは難しい。飯山市では、市長を中心に行政懇談会を重ね、1995年「大聖院跡地整備事業」をスタートさせた。4年後、飯山市教育委員会から要請を受けた笹本教授が文化アドバイザーに就任し、信州大学と飯山市との関わりが始まった。教授は、教育委員会の望月静雄氏や柱松保存会会長(当時)の蒲原義則氏らと大聖院跡地を中心に調査し、飯山市内でシンポジウムや勉強会を開催。住民にも小菅の文化財がいかにすばらしいか、理解をもとめていった。2001年には「柱松柴灯神事」についてもその重要性に着目し、「柱松シンポジウム」も開催している。2003年に、飯山市教育委員会は国庫補助を受け修験の里である小菅を多角的に調査研究しようと、信州大学を中心として小菅総合調査を行った(~2004年)。信州大学では、人文・教育・工学・農学と学部を超えた研究グループが立ちあがった。歴史は笹本教授、建造物は土本俊和教授(工)、庭園は佐々木邦博教授(農)、周辺里山の植生は井田秀行准教授(教)、また現集落の住民意識などを村山研一教授(人)が中心となって、調査研究が進められ、多くの学生たちも足繁く小菅に通って、小菅の人々との親交を深めた。2004年8月、信州大学は地域連携協定の第一号として、飯山市と連携協定を結び、9月には、小菅総合調査の研究成果を地元へ還元しようとシンポジウムを開催。その後も信州大学の調査活動は続けられ、種々のシンポジウム、勉強会が開催されている。今回の「柱松行事」重要無形民俗文化財の指定にいたる背景には、このような信州大学と飯山市との営みがある。地域の宝を再発見し、ともに調査研究する過程は、地域の人々の自分たちの地域への自信と誇りを育む。それが過疎化や高齢化の波が襲う山間地の集落を活性化させ、文化継承の維持を支える原動力にもなっている。光がつむぐ人々の心のきずな山並みの左や右で千曲川が日本海へながれていきます。小菅への道は、わたしたちの学びの場への道筋で、東にむかう急なのぼりが最後の道程です。仁王門をすぎると、茅葺きの家や土壁の蔵や石積みの棚田や間口五間のお堂があって、たかい木々のなかに神社があります。そこは雲の上のちいさいミヤコのようで、わたしたちは敬虔にあるきます。それから、建物をはかったり、日々のいとなみをうかがったり、古絵図をみたりしながら、この里のむかしの姿をかんがえます。夜はふかい闇で、ホタルやカエルが元気です。初夏に神事があって、その数日前から闇を灯がてらします。大祭がおわると、しずかで、さりゆく人をみおくると、西のはるかむこうに妙高山がみえます。小菅をあとにする午後、千曲川がならした低地にレンブラント光線さながらの光が雲のはざまからおちています。この光がつむぐ人々の心のきずなに、菜の花畑をあるくときのような土のにおいがあります。左は金剛界曼荼羅、右は胎蔵界曼荼羅。合わせて両界曼荼羅という。現在、小菅の菩提院に所蔵されている(県宝)「信濃高井郡小菅山元隆寺之図永禄九年」手前にある鳥居は二の鳥居。そこからまっすぐに元隆寺(現小菅神社奥社)への参道があり、左右には僧房、寺院が軒を連ねる。現在はその場所に民家が建っている。民家の調査をする学生祭り前日の夜工学部教授(建築学科)土本 俊和地域の宝を再発見活性化の原動力へ壱壱12飯山小菅地区の伝統・文化を掘り下げる信大NOW No.68地域と歩む。

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