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高校までの生物、受験の理科

日本免疫学会ニューズレター19号への寄稿、2002.8)

信州大学大学院医学研究科移植免疫感染症学 瀧 伸介

 ちょっとした驚きなのですが、ある国立大学の医学部では、入学試験(前期日程)の二次試験に理科も英語も課さず、数学と面接、小論文で合否を決めています。まさか、negotiationと算術こそが医者に求められる全てだ、と主張しているわけではないのでしょうけど、例のコアカリキュラムでもって行われる大学に入ってからの教育と合わせて考えると、一体どうなるんだろうと思ってしまいます。かつての教養部のようにのんびりと一般教養を身につけているヒマはない程に医学部で学ぶ内容が豊富になっていることは、隠れようもない事実でしょうし、医学部を医師養成機関として位置づけて、より良い医師を養成する為の専門学校化しようと言うのは、確かに時代の要請に合致した方向だと思います。ただ、その中から研究者もまた育てなければならないのが、本邦のシステムであって、学部教育がよりpracticalになっていく以上(MD/PhDコースを併設しない場合は)、それはもっぱら大学院に課せられた任務とういうことになるのでしょう。とすると、さっきの大学の場合だと、センター試験がこなせる程度の理科や英語の学力をもって入学して、医師になるための実践中心の教育を受けただけの学生が大学院に入ってくるようになるわけで、それからたった4年間で学位に価するだけの研究者にならなければならないとしたら、ずいぶん厳しいもののように思います。受験科目に理科を課したからといって、こういう状況が好転するほど簡単なものでないことも分かってはいますが、大学に入ったら科学を勉強する時間なんて無いのだから、せめて高校までにしっかりと科学の考え方、勉強の仕方と言うのを学んできて欲しいなと思ってしまいます。

 他の多くの大学では、理科は個別試験の科目に入っているので、この状況は先に述べたような一部の大学に限ったことなのかも知れませんが、こと生物ということになると、同じような問題が多かれ少なかれどこの大学にも共通しているのではないでしょうか。受験科目に生物を選択しない人にとっては高校での生物の授業と言えば、生物Iのみで、生物IIとして教えられる分子および細胞生物学、進化、分類などは履修することはないと思います。もちろん、知識としての生物学など、後で自分で勉強すれば良いとも言えるのですが、分子および細胞生物学や生化学に関しては(これはどちらかというと生物科学と言うよりも生命科学として医学部ではおなじみですから)、いずれ接する機会もあるでしょうが、進化、分類(や生物Iの植物関係の項目)に関しては、それが、昨今話題の生物の多様性の理解の基礎であるにも関わらず、ともすれば一般教養のように受け取られがちで、特別な興味のない人にはアピールするところの少ない分野です。それに、顕微鏡の存在を知らない人は、顕微鏡を使ってみようとは思わないように、きっかけとしての知識、と言うものもあるわけです。少しでも知識があれば、それをきっかけにして自分の興味と必要に応じて情報を収集することは、一から勉強するのに較べるとずっと効率の良いものでしょう。今の医学部生はさっきも述べたように、やらなければならないことが他に一杯あるのですから、忙しくなる前にその程度の知識は身につけておくに越したことはないと思います。

 高校生までの教育に口を出すのが、私たちの仕事かどうかは疑問ですが、入学試験という、私たち大学にいるものが高校生までにどういう教育を受けてきて欲しいかを間接的にであれ表現することができる(してしまう)機会があるのですから、そうそう等閑視して良い問題でもないでしょう。最近、ラボを移ったので荷物の整理をしていたところ、岩波書店が1978年に再刊した「現代生物学」講座の月報が出てきました。その中で(注)東京都立高校の生物の先生の澤田氏の書かれているところによると、氏は高校の生物の授業で論証方法の修得を目的としてW. Harveyの血液循環に関する古典を書き改めて教材に使っているというのです。実際には、「Harveyが証明しようとしたテーマをまず生徒に与えて、それを証明するにはどういう実験と論証が必要かを生徒によく考えさせ、その後でHarveyの行った実験と論証を示して、生徒の案と照らし合わせて、生徒にもう一度考えさせ」ていたそうです。こんな授業、ウチの高校ではなかったぁ。これは生物学を教える方法としては秀逸でしょうが、もっと言えば高校生には少々やりすぎで、今なら大学レベルでの医学生物学の演習にこそふさわしいものかも知れません。私がここで言いたかったことは、生物の授業を単なる知識の習得に終始させるのではなく、ここまででなくとも、ある知見がどのような背景を持って発見されたのか、すなわち、それまでの「常識」はどう言ったものだったのか、どのような決定的な実験もしくは観察がそのような常識を覆したのか、と言う視点で、全てでなくとも出来るだけ多くの現代生物学の知見について教えて貰えれば、生物を面白いものだと思う学生が増えるんではないか、結果として大学における医学生物学教育の改善にもつながるのではないかと言うことです。そのためには、私たちも入試問題という形で間接的に主張をしていくべきなのかもしれません(生物を選択してくれなければ無意味ですが)。最後まで免疫学の話はどこにも出てきませんでした。生物で受験して、理学部で生物学を専攻し、今、免疫学に関係している生物学研究者の戯言として読み流してください。

 

注)その文章の載っている第9冊(1978年11月)は、最初の文が森澤先生によるその前年に亡くなった北川正保先生への追悼文で、その頃の日本免疫学会がどういう時代だったかが良くわかります。

 

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