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脱サラ免疫研究者が本郷に来た頃

(東京大学医学部血清学教室・免疫学教室設立百周年記念誌への寄稿 2018年10月)

信州大学医学部・免疫制御学・教授 瀧 伸介

このたびは、東京大学血清学・免疫学教室創立百周年おめでとうございます。前世紀に5 年あまり所属させていただき、末席に連なることとなった脱サラ免疫研究者として、その頃のことを記録がてら少し思い出してみたいと思います。
私が本郷の二号館に来たのは 1994 年の夏でした。多田先生のやっておられた WACIID を覚えておられる方も多いかと思いますが、その年の初めのコースに参加した際に、東大に移ることが決まっておられた谷口維紹教授にお声をかけていただいたのがきっかけでした。実は、私はその時まで「瀧」ではなく「滝」でした。細かいことを言うと「瀧」でもなくて、そのまた旧字体で、右下の部分が三本線でなく「テ」になっているのが戸籍の字なんですが。赴任後いろいろと書類を出したときに、名前の漢字が戸籍と違う、はんこを作り直せ、と言われ、いや、でもこれまでずっとこれでやってきたし、会社にいた時もこれで OK だったんですが...という言い訳に、先生は民間だったから、と有無を言わせてくれませんでした。「民間」というのはその後よく聞く言葉になりましたが、面と向かって言われたのはそのときが初めてで、ははぁ、さすがに違う世界に来たなと感心したものでした。それ以降ハンコは特注になってしまうし、伝統の重みで人生が不可逆的に変わったのでした。
赴任後半年が過ぎ、阪神淡路大震災で明けた 1995 年の春、大学教員としてのお仕事がやってきました。初めての入試監督です。駒場まで出向いて監督をこなし、本郷に戻ろうと正門前の広場を通りかかると、変な集団がダンスをしていて、よくある学生の勧誘だな、と思いながら駒場東大前駅まで歩きました。その時、助手だった北川元生先生と一緒だったんですが、こんなの配ってた、というので見てみると、それは「曼荼羅カレンダー」でした。当時、免疫学教室の下の階は法医学教室でした。それからしばらく経った頃、法医学教室の技官さんが、先生、Merck Index ありますか、とやってきました。ああ、ありますよ、何調べるんですか?いや、サリンっていう物質の毒性を知りたくて、というような話でした。広場で踊っていた連中の仲間たちが、その日、地下鉄でサリンをまき、多くの犠牲者が出て、一部のご遺体が本郷にも運ばれてきていたのでした。私はその 5 年後本郷を離れ、千葉大学を経て信州大学に奉職し、免疫学の教室を開くことになります。実は日本でサリンが使われたのは、地下鉄サリン事件で2度目で、その前は信州大学医学部がある松本市で、犠牲者の中には信州大学の学生さんも含まれていました。この 100 年の間には、もっと世界的な広がりを持つ大事件もありましたが、私の記憶の中の東大免疫学教室はこの事件と分かちがたく結びついています。
助教授の田中信之先生と一緒に使うことになる3階の助教授・講師室を改装した時のこと。床をきれいにしようと思い、はがして張り替えたいんだけど、と業者さんに相談したら、張り替えるなんてとんでもない、この建物は贅沢な部材が使ってあるのでカンナかければ新品になりますよ、と言われました。実は、その部屋の床材は厚さ数センチの木片を組み合わせた組み木の床だったので、その業者さんの言うとおり数ミリ削ったらまるで新品の無垢材みたいなピカピカの床が現れたのでした。伝統をつないで行くというのはこういうことなのかも、などと考えます。自分たちがやっているのは、先人から受け継いだ分厚い土台に薄い「汚れ」をつけること。果たして私が所属した 5 年と少しの間にどれだけの「汚れ」をつけることができたのか?え、床ピカピカのママだったよ、なんて言わないでください。 

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