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やまだ けんぞう

山田 健三

日本語学 教授

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学部長室から

【学部長室から】大学における「出口問題」

(2016-04 同窓会報原稿)

フルーツパーラー万定(東京・本郷)のキャッシャー

 信州大学人文学部同窓生の皆さま、この四月【2016年4月】から人文学系長(人文学部長・人文科学研究科長)を拝命いたしました山田健三と申します。信州大学人文学部および人文科学研究科に対する、日頃の皆さまのご支援に、心より厚く御礼申し上げます。新たな執行部体制となりますが、引き続きのあたたかいご支援を何卒宜しくお願い申し上げます。
 さて、口上はこのくらいにし、引き続き本編「大学における「出口問題」」を開始いたします。エンドロールまでお付き合いいただければ幸いです。
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 大学における「出口問題」。ご存知の方も少なくないだろうが、これは大学卒業後の進路を「出口」と称し、どんな「出口」があるか大学は示しなさいと、大学が文科省から迫られている問題である。「はい、こんなところに就職していますよ」という進路実態を示してすめば何の苦労もないのであるが、求められているのは、「結果」としての出口ではなく、「目的」としての出口ということ。目的としての出口。どういうことか。
 中学を高校予備校、高校を大学予備校、のような短期目的達成のための訓練場とみるならば(そういった姿勢に私は与しないが、それはさて措き)、大学を就職予備校とみる観方があっておかしくないし、それこそが大学の目的だという御仁がおられても一向に不思議には思わない。それは、そういった声は昔からあるからである。
 日本には、「大学は口入れ屋ではない」という某大学某教授による口承古典作品も伝えられており、「大学教育≠職業訓練」というこの「大学教育宣言」は、19世紀イギリスに明確な痕跡として見られる(ジョン・スチュワート・ミルの1867年講演。『大学教育について』岩波文庫)。このように「大学教育は職業訓練ではない」という命題をわざわざ宣言しなくてはならないということは、「大学教育は職業訓練の場である(べきだ)」とする言説が、どの程度かは別として、社会に存しており、出口問題は何も今に始まったことではないことの証拠である。こういった議論は、時や場所を変えて噴出している。
 「時や場所を変えて噴出する」ということは、この問題がかなり普遍的なテーマで、しかも議論が二分されたままで解決を見ない難題である、という、人文学的には垂涎のテーマである。
 「大学教育は職業訓練ではない」という命題。これは「大学教育は職業訓練に役立ってはいけない」ことを含意するわけでは、もちろんない。よって双方の考え方は本質的には対立しないはずで、問題の在り処は、大学教育の「目的」を具体的かつ一義的に決めようとする姿勢の是非であると考えざるを得ない。「オレ、将来、エンジニアになりたいから」という高校生が、工学部に進みたいと思うのはごく自然なことであるし、「ワタシは医者になって多くの人を病から救いたい」という人が、医学部を目指すのも、ごく普通である。そう考えれば、大学教育に職業訓練を期待するのは尤もなことである。
 しかし、手塚治虫さんや北杜夫さんを持ち出すまでもなく、医学部を卒業しても医者以外の道を選ぶことができる「職業選択の自由」が存在するのは、日本国憲法(第22条第1項)が定める通りである。手塚さんや北さんのようなケースはレアかもしれないが、そうではあっても、このことは、「医学を学びたい」ということと「医者(臨床医)になりたい」ということは、原理として一致しなくても構わない、という、至極当たり前のことを教えてくれる。「学びたいこと」と「職業にしたいこと」とはリンクしなくてもよい(もちろんしてもよい)。むしろ「医者になりたい人しか医学を学べない」というのは「学問の自由」(日本国憲法第23条)に反する精神である。
 ちなみに、時として「自分勝手」と同義に使われることのある「自由」というコトバが、憲法において使われているのは、「○○から自由になる」という表現に明らかなように、「○○に束縛されない」という意味で用いられている。民主主義下の憲法で○○に何が入る(べき)かは問うまでもなかろう。
 このように、「大学教育は職業訓練ではない」という否定形で語られる命題(否定命題)は、「大学教育は職業訓練に役立ってはいけない」ことを含意しない。つまり「大学は「職業訓練」を排除しませんよ」「職業訓練に役立ててもらっていいけど、その他いろいろなことに自由に役立ててもらって結構ですよ」というのが、「学問の自由」からも導かれる基本原理であると考えるべきである。唯一目的のためだけに大学が存在するようになると、大学は「御用学者の巣窟」になる危険性がある。
 しかしそれでも大学が職業訓練とセットで語られることに、一定の社会的意味があるのは、「医者になりたいけど、医学は学びたくない」といった前段文と後段文の組み合わせを排除するためである。いくら職業選択の自由があるからといっても、医学を学んでいない人に医者になられたら、複雑に進展した現代医療事情からすれば、危なくてしようがない。そんなアブナイ人でも公共の福祉に反しないのは、「アジャラカモクレン、キュウライソ。テケレッツノパー。」という呪文で病人を救える医師が住む、落語「死神」の世界ばかりである。
 こういった社会的リスクを事前に回避するためには、「医者になりたければ、医学部でちゃんと医学を学びなさいよ」という、社会が容認するルールを構築することが必要になる。ここに「大学は職業訓練校・養成所である」という見立てが成立する。しかしこの見立ては、数ある目的から職業訓練のみを取り出し、その視点から語ったものに過ぎず、本質ではない。
 以上、判りやすい例として「医学・医者」の場合を取り上げたが、本質はどの学部でも変わらない。医学部の場合、医者志望が偏在していて、そこに単一的志向を見出すことが可能であるのに対して、人文学部の場合は、その研究対象が「人文=すべての人的営為」であるため、多くの学問領域が存在し、そこに医学部のような単一的志向が生まれ得ない、という程度問題に過ぎない。よって、閉じたシンプルな「出口」は描けない、ということになる。永らく人文学部同窓会メンバーの方々が「現代職業論」として、開いた豊かな「出口」を学生に描いて見せてくださっていることは、会報読者の方にはもう周知のことと思うが、それらは人文学部の豊かな「出口」の一端である。
 人文には人文の豊かな「出口」がある。しかしそれは、今流行りの「ミッション」(エンドロール参照)というフレームには収まり切らない。

万定のカレーライス

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 大学や大学制度の歴史などを意図的に考慮せず、あくまでも、戦後憲法下の現代日本社会という共時態ベースで「出口問題」を考えました。「そもそも大学は○○のために作られたのであるから、○○であるべき」というソモソモ論での説明とは別に、共時論は成立します。現在の「出口問題」もそういった文脈で語られています。その文脈とは「ミッションの再定義」というものです。
 国立大学改革として「ミッションの再定義」が求められている、という表現を新聞その他でお聞きになった方もいらっしゃるでしょう。当初、官庁文書に「ミッション」とか「エヴィデンス」といった、バタくさい言葉が躍るのにやや驚きましたが、今はむしろ恐怖を感じてさえいます。日本語社会における外来語使用の是非については、いろいろな議論がありますが、そのことはさて措き、外来語使用の効果として「カセット効果」ということが指摘されています。これは翻訳論において功績のある柳父章さんの作ったタームですが、宝石箱(フ:cassette)の効果、ということです。宝石箱は中身をよく見せてくれる、思わせてくれるものです。「掃除婦募集」では一向に集まらなかったパートが、「クリーン・レディ募集」と変えた途端、多くの応募があった、という現象をうまく説明してくれます。ただし「カセット効果」というコトバ自体は中立的なタームです。「カセット効果」があるから、いいとか悪いとか、そういうことではありません。カセット効果によって、どうなっているのか、という実態に目を向ける必要があります。 さて、ミッションというのは一義的な目標を持つ仕事のことです。かつて1960年代後半から70年代初めにかけて日本でも大人気だったアメリカのテレビドラマ「スパイ大作戦」の原題が Mission Impossible であることはよく知られていますが、邦題に「スパイ」が出てくることからも想像できるように、まさにピンポイントの仕事・作戦で、軍事作戦で多用されるコトバです。現在の国立大学は、この軍事作戦などで多用される「ミッション」ということばで役割を「定義」させられ、そしてその「ミッション」が成功したかどうかの「自己評価」をし、更にそれを評価するための「エヴィデンス」(証拠資料)を作成して提出せよ、という義務を負わされ、膨大なペーパーワークに教職員は忙殺されています。大学業務を語るコトバが、軍事作戦を語るコトバの類推で語られる現状に、不安を抱く人は少なくないでしょう。こういったコトバはカセット効果で一見スマートに見えますが、ミッション、エヴィデンスを使うことで、大学業務自体を観察するフレームワーク自体が変容していることを見落としてはいけません。
 話を戻しましょう。このような現状にソモソモ論を持ち込んでも議論は噛み合いません。
 私自身の研究領域は日本語学・日本語史学(言語学・言語史学)です。構造主義の祖とも呼ばれ、自身優れた言語史学者でもあったソシュールが、彼の言語学概論(『一般言語学講義』)の受講生たちに、共時態と通時態を峻別して議論すべきという研究の「基本姿勢」を説きましたが、それは現代でも言語学徒には受け継がれている(はずの)姿勢です。私のこの一文もその姿勢で考えた一言語学徒の「出口問題」です。言語史学(歴史言語学)を更なる専門としている身としては、出口問題が噴出しているのが「今」である歴史的理由にも触れたいところですが、もう余裕も猶予もありません。別の機会を得たいと思います。
 ぜひ、人文学部同窓生の皆さんの「声」を聴かせていただきたいと思います。人文学部・人文科学研究科で学んだことが、皆さんの人生の、仕事のどのような局面で皆さんを支えているのでしょうか。私個人は、人文学はPCのOSに擬えられるものと考えていますので、アプリのように目立つものではないけど、しかし基盤としてしっかり働いてくれているのではないか、と期待をもって想像しています。
 皆さんの「声」が最大のエヴィデンスです。上述の理由で、今後、アンケートなどお願いすることもあろうかと存じます。改めて、人文学部・人文科学研究科を叱咤激励していただくとともに、あたたかいご支援をお願い申し上げます。長いエンドロールにお付き合いいただきありがとうございました。

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