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やまだ けんぞう

山田 健三

日本語学 教授

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学部長室から

【学部長室から】思考の保守点検

(2016-04-04 学部ガイダンス挨拶より)

プランドル(愛知県東浦町)のローストビーフ丼

 学部長のヤマダです。人文学部へようこそ。皆さん、おめでとうございます。ただ、この「おめでとう」は大学入学への祝辞ではなく、みなさんがようやく「本当のことを学べる」スタートラインにたどり着いたことに対する祝辞であります。
 このようなことを申し上げると、「オイオイ、「本当のこと」だってよ。笑わせるね。」といった、世の中を斜めに見るような批判精神の持ち主からは、すぐにチャチャが入れられ、失笑を買うでしょうし、「本当のことを学べる」などというと、「本当は怖い○○○」といったタイトルを持つトンデモ本を連想したりして、何だか怪しげなカルト宗教集団的雰囲気を感じてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。
 今からお話することは、忘れもしない、私が小学校六年生の時の担任の先生が卒業式近くに話されたことで、私には強烈な印象を以て記憶されています。先生はこう仰った。
 「皆さんはこの6年間でいろいろなことを学びました。でもそれは全部ウソなんです」と。
 小学6年生の私にはショッキングなことばでした。何といっても「ウソ」なのですから…。続きがあります。「本当のことは中学校で教えてくれます。でもそれも実は全部ウソなんです。本当のことは高校で教えてくれます。…でもね。実はそれも全部ウソなんです。本当のことは大学で…」と続いて、話は大学で終わります。このことを踏まえて私は「本当のことを学べる」スタートラインに立った皆さんに「おめでとう」と申し上げたわけです。
 頭脳がビンビン働いて働いて仕方のない世代の皆さんには、当然お分かりのように、ここで語られる「ウソ」「本当」ということばは、真偽判断で用いるそれではありません。小学生に伝わるように、その先生はそのようなことばを選択されたのだと思います。今時ならこのことばが親に曲解されて問題視されることも考えられなくはないほど、エッジの立った、いささかパンク・ロック的な表現でもあります。
 今日は、このエッジの立った表現の真意を、大学に入りたての皆さんにどう伝えるべきか、私の考えたところをお話したいと思います。
 一言でいえば、これは「思考の保守点検」ということに尽きるように思います。「常に保守点検をせよ」「保守点検できる能力を身に付けよ」ということです。
 皆さんが高校まで得て来た知識や技術は、どのようなものであっても、皆さんの思考のための材料もしくは基盤となる重要なものです。しかし「重要」であるということは、橋を支える橋桁のようなものだ、という意味で重要なのであって、大事に触らずにそっと崇めて置けばいいというものではなく、むしろ常に保守点検が必要であるということです。材料もしくは基盤となるべき知識や技術に誤りや欠陥があったら、そういった土台の上に立つ思考は、いつ落ちるか判らない橋のように、危うい思考となってしまいます。橋が落ちないよう、補修したり、異なる材料に交換したりしなくてはならない。我々人類を不幸に向かわせる危うい思考・危険な橋にならないために、きちんとした真実を反映した思考となるために、多くの先人が「保守点検」を行ってきました。民主主義社会では、その「保守点検」業務の担い手は、国民全員が負うべきものですが、特に大学教育、とりわけ人文学に携わる人には、そういった能力が最も期待されているところです。

谷口屋(福井県竹田村)の巨大「あげ」

 皆さんは、人文学部の「人文」とはどんな意味だと考えていますか?平たくいえば、これは「天文」「地文」に対立する事象区分で、「人間の営み」というほどの意味です。人文学とは人間の全ての営為を対象とする学問を指すことになります。哲学、歴史学、心理学、言語学、文学、社会学、芸術学などなどすべての人間の営為のある側面に注目し、多くの知見を得て現在まで継承されてきている学問です。その一つ一つの成果から得られた知識や技術・方法が、現在の学問のみならず、我々の思考そのものを支えています。
 一つ具体例を示しましょう。言語、文法のはなしです。文には必ず主語と述語がある、というのは、誰もが小学校で教わる話でしょう。国語の授業の中で習いますから、日本語については、という限定があるのかもしれませんが、それはそのまま英語教育でも使われているので、言語の違いに関係なく、あらゆる言語に普遍的な概念であるように、記憶されていきます。特に「主語」なんてことばは日常的にもよく使われることばになっています。しかし「主語」という言語学的概念については、現代英語に関しては有用な概念と思われますが、日本語に関しては問題の多い概念です。「は」という助詞が主語を表す助詞と言われますが、「今日は入学式だ」の「は」はそうみてよいように思われますが、「今日は眠い」の「は」はどうでしょうか?「今日は(私は)眠い」のように「私は」が省略されているのだ、と説明しようとしたところで、「今日は」の「は」は依然と残ります。「日本語に主語などない」と明言する研究者もいます。ただ、日本語に主語があるかないかが問題ではなく、日本語を説明するのに、主語という概念は不十分である、ということです。日本語という橋を、主語という一つの橋桁が支えてはいますが、どうも危ない状態にある、ということです。
 いかがでしょうか。この例を考えると「今まで学んで来たことはウソである」という過激な表現にも納得できるのではないでしょうか。「じゃあ「主語」に替わる術語を考えればいいじゃないか」「「は」の働き・意味を研究すればいいじゃないか」という声が聞こえてきそうです。もちろん現在までに多くの研究者が挑んでいますが、まだまだ難題のままです。
 今の話は、言語学の、それも文法研究の中の一つの話に過ぎませんが、どの研究分野でも同じです。研究の進歩が、より確かな「橋桁」に変容させてくれるはずです。そしてそれはどこかの誰かがやってくれているはずですが、我々一人一人は、他人からすれば、その「どこかの誰か」なのですから、我々が乗っている橋のどこかの「橋桁」の保守点検作業に関わっていきます。皆さんの保守点検能力が育ちそうな「橋桁」(分野)を見つけてください。

 最後に少しだけシビアな話を。
 昨年(2015年)は、安保法制の問題が国論を二分しました。どちらの立場の人であっても、戦争のない平和な日本社会そして世界を希求しているはずです。にも関わらずこのような違いが出てきます。今までお話したように、人文学は人間のあらゆる営みを研究対象とします。戦争も平和希求も人間の営みです。人文学の営みは、思考の確かな橋桁を形成するための絶えざる保守点検作業です。言語学の「主語」の問題が簡単ではないように、この問題も簡単ではありません。皆さんが、教員・先輩と楽しく議論しながら、皆さん自身の「思考の保守点検能力」が人知れずアップしていく姿がみられることを願っています。

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