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おおぐし じゅんじ

大串 潤児

日本史 准教授

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サークル誌をもとめて

下伊那の「生活を記録する会」

久しぶりの飯田

生活を記録する会関係綴・実原公男文書

 8月23日夜半。岡谷から飯田線の旅でした。お盆が過ぎると夜の信州はもう秋の気配ですが、まだまだ暑い日が続いています。   8月24日、「飯田・上飯田の歴史」執筆のためとサークル運動研究のための資料調査を兼ねて久しぶりに飯田市を訪れました。   24日午前中は、休館日にもかかわらず司書・宮下さんのご厚意で上郷図書館の調査をさせてもらいました。大学院生の頃、書庫にあった上郷青年会(団)関係文書の整理・目録化をしたことがあり、それ以来のつきあいとなります。     上郷図書館では上郷青年会の機関紙・誌(「上郷青年」「青年会誌」)や生活記録文集『あしあと』、若妻会関係の記録を収集・閲覧することが出来ました。   午後は飯田市歴史研究所に行き、青年問題研究集会関係の記録でまだ未収集のものを調査しました(かつてお世話になった下伊那郡青年団協議会・木下貴冨さん旧蔵資料)。   この日の夜は、飯田市歴史研究所の本島さんと、古くからの知人・粂原さんと楽しい食事をともにすることが出来ました。

実原公男文書

下伊那生活を記録する会機関誌「おつれ」

  25日は、高森町山吹に宮下道彦さんの墓参に行く予定がありましたので、午前中だけの調査となりました。   かつて大変お世話になった天竜社労働組合・下伊那地区評のリーダー実原公男さんが残した史料群の調査です。もう何年も前ですが、実原さん宅におじゃまして、友人たちと目録を作ったことも懐かしく思い出されます。その時の有力メンバーであった島本浩樹さんは以下の論文を発表しています。 ・「1950年代の長野県下伊那郡における勤労者協議会運動の展開-鼎勤労協を事例に」東京学芸大学史学会『史海』49、2002年6月。 ・「1950年代の労働争議と地域-組合製糸天竜社争議を事例に」東京歴史科学研究会『人民の歴史学』154、2003年1月。 ・「結成当初、長野県評の運動と地域連帯」長野県現代史研究会編『戦争と民衆の現代史』現代史料出版2005年。   今回は、この実原公男文書から「生活を記録する会」関係の史料を調査することが目的です。実原文書には天竜社労働組合の基本的な史料はもちろんのこと、天竜社阿南工場労組機関誌「つどい」や地区評史料・母親大会、各種サークル関係の記録が残されています。また、実原さんご自身の「日記」もあります。

生活を記録する会の「ひろがり」

下伊那生活を記録する会「おつれニュース」

  「生活を記録する会」とは周知のように長野県飯田下伊那や上伊那地域から多くの女性たちが働きにいっていた三重県四日市市にある東亜紡織泊工場で作られたサークルです。木下順二・鶴見和子編『母の歴史』(河出書房新書1954)は、戦後生活記録運動の1つの達成点です。中心となった澤井余志郎さんは、『母の歴史』の後は四日市公害問題に取り組みますが、最近、自伝的な著作を発表しています(『ガリ切りの記 生活記録運動と四日市公害』影書房2012)。   東亜紡織のサークル「生活を記録する会」については、現在にまでつづくその基本的な史料が辻智子さんをはじめとする「生活を記録する会」メンバーによって日本図書センターから復刻され、また京都文教大学「鶴見和子文庫」を使った研究が格段に進みました(最近のものとして代表的には西川祐子・杉本星子編『戦後の生活記録からまなぶ』日本図書センター2009)。   しかし、私はずっと気になっていた伊那谷の戻ってからの、あるいは伊那谷と四日市を結ぶサークルの動きを何とか追いかけたいと思い、下伊那での「生活を記録する会」に辿りついたわけです。   東亜紡織のサークルと話し合いをした1959年1月に「下伊那 生活を記録する会」は発足し、8月には文集『おつれ』第1集を、60年には会員向けに「おつれニュース」を発行します。『おつれ』には、かつて東亜紡織「生活を記録する会」のメンバーであった女性も書いています。   「生活を記録する会」は、1950年代後半からの高度経済成長の中でどのようにその「問い」を広げていったのでしょうか?   

生活を記録する会の「問い」

飯田の映画サークル機関誌『映画ノート』

  四日市のサークルで出されている『紡ぎ』を見ると、上伊那にも同様に会があり、さらには鹿児島の「生活を記録する会」との交流が始まっていることが確認できます。鹿児島の「生活を記録する会」は、『サークル村』にも参加したサークルですが、その初心は、   「私達は、「私は女子労働者だ」ということが本当に実感として言いうるためには、自分のなかに根強く残つている農村をはっきりとつかみとれなくては駄目だと考えています。私達の経験から言っても、工場の女子寄宿舎生活の中ではすべてのことを家との結びつきでしか考えられませんでした。そんなに、一人一人の心の中に根づいている農村の比重は思いのです。・・・・だからこそ帰ったかってのなかまを励まし合って、工場と農村とのきづなの中で斗えるようになったとき、「私は女子労働者である」と本当に心から思えるようになるのだ」   「自分の中に巣喰っている〈出稼ぎ根性〉を発見し、それを乗りこえるためにも、また運動を「工場の塀の中」というかぎられた視点でみるだけでなく、紡績女工の供給地である各人の出身農村との関連の中で捕らえうる力を養成しうるためにも、また心ならずもさまざまの理由から帰郷せざるを得なかったものとの紡績のなかまを組織するためにも、鹿児島、長野、島根、岐阜等の紡績女工の供給源地に、なかまづくりが始まらなければならないと考えるわけです」   と記録されています(『紡ぎ』1959年2月)。高度経済成長が本格的に始動していくなかで、こうした「問い」は、農村と都市とを往還しながら、また農村に留まりながらどのように深められてったのでしょうか?   ちなみ飯田でつくられていた映画鑑賞サークルの機関誌にも「紡績女工」をモデルにした映画「すばらしき娘たち」の鑑賞会を行う天竜社市田工場の女性達の記録が掲載されています(『飯田・月刊 映画ノート』第2巻第9号、第10号、1959年9-10月)。

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